サクッとわかる高校世界史

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殷周の興亡、春秋戦国時代の幕開け

城壁を持つ都市が登場し、文化の交流が一層盛んになっていった中国では、次第に都市を統べる国家が形成された。中国最初の王朝は「夏」であるとされており、伝説の皇帝である禹によって創始されたとされている。夏王朝の痕跡らしきものは近年見つかっているものの、高校の教科書では殷を最初の王朝としている。

→殷は紀元前16世紀ごろに湯王によって創始された。殷の人々は自国を「商」と名乗っていた。殷墟と呼ばれる遺跡(都があったところ)からは、漢字の元となった甲骨文字が刻まれた亀甲や宮殿の跡が発掘された。

→殷は都を中心にいくつもの「邑」という都市が集まって構成されていた。王は占いによって政治を行い(神権政治)、儀式に用いる青銅器が多数作られた。

→紀元前11世紀に王位に就いていた紂王は圧政をしいたため渭水流域で力を伸ばしていた「周」に滅ぼされた。ちなみに、「酒池肉林」という四字熟語は紂王が宴会を催したときの様子に由来している。

殷の紂王

→周は鎬京に都をおいた。周王朝封建制を採り、一族の人間や功績のあった家臣に土地を与えて諸侯とし土地を世襲させたことに加え、卿・大夫・士といった家臣にも土地(封土という)を与えた。

封建制によって一族のまとまりが重視されるようになり、一族内のルールを定めた宗法が作られた。また、この一族の関係のことを宗族という。

周王朝の君主は封建制で各地に散らばった権力をまとめ上げる立場にあった。

→紀元前9世紀ごろから内部闘争や異民族の侵入により衰退をはじめ、紀元前771年に犬戎と呼ばれる北方民族に都を攻められて滅亡し、生き残った王族は洛邑に遷都した。(洛邑に都をおいた周を東周という)

西周洛邑に遷都する前の周を西周と呼ぶ)の最後の君主である幽王

→各地で有力者が台頭するようになり、東周の権威は失墜して春秋・戦国時代が幕を開けた。

 

まとめ

殷 中国最古の王朝とされており、都は殷墟におかれた。神権政治を行い、青銅器が作られた。

周 殷を滅ぼして成立した。都ははじめ鎬京におかれ東周時代には洛邑を都とした。封建制を用いて統治し、一族の繋がりが重視された。やがて衰退し春秋・戦国時代が訪れた。

中国3000年史の始まり~黄河・長江文明~

中国3000年の歴史という言葉を聞いたことがあるように、中国大陸には数千年前から文明が存在した。今回は古代中国文明について解説します。中国には黄河と長江というふたつの大河川があり、この河川を中心に紀元前6000年ごろ文明が誕生しました。

黄河流域では紀元前6000年ごろからアワなどの雑穀が育てられていた。

→紀元前5000年ごろになると、黄河中流域で仰韶文化がおこった。この文化はオリエント伝来ともいわれる彩文土器を製造したことで知られており、アワやキビが栽培されていた。

仰韶文化で作られた陶器(Rosemania作、wikipediaより)

→さらに紀元前3000年ごろになると黄河下流域で邑と呼ばれる集落を形成し、黒陶や灰陶を使用した竜山文化もおこった。

竜山文化出土の高坏(Editor at Large作、wikipediaより)

→長江流域では稲の栽培が早くから行われていた。これは長江流域が湿潤で降水量が多く、稲作に適していたためである。

→紀元前5000年ごろ河姆渡文化が形成され、紀元前3000年ごろには良渚文化が形成された。河姆渡文化の代表遺跡である河姆渡遺跡からは大規模な稲作の跡が発見されている。また、良渚文化の代表遺跡である良渚遺跡からは祭祀を行っていた跡が発見されている。

→これらの文化の交流と争いが繰り広げられた結果、武器や城壁が出現し、人々の中に階層が生まれていった。

 

まとめ

仰韶文化 黄河流域で起こる。彩陶を特徴とする

竜山文化 黄河流域で起こる。黒陶を作り、集落を形成した

河姆渡・良渚文化 長江流域で起こる。稲作が行われた

古代東南アジア諸王朝を一気に解説

東南アジアの歴史というと、いくつもの島々に王朝が乱立していて頭の中がごちゃ混ぜになってしまうのではないだろうか。今回はそんな東南アジアの古代史(ここでは13世紀ごろまで)を解説していきます。

(外務省より引用)

まず、上の地図からわかるように東南アジアは大陸部分(タイなど)と島しょ部(インドネシアなど)に分けて考えることができる。ここではまず大陸部分の歴史から見ていきます。

ベトナム北部

→紀元前2000年紀末にベトナムやタイ東北部で青銅器文化が発達していた。

→紀元前4世紀にはいると中国の影響を受けてドンソン文化が形成され、銅鼓と呼ばれる青銅器が作られ、祭祀などで使われたと考えられている。

銅鼓

→ドンソン文化は紀元前1世紀ごろまっで続き、この間にベトナム北部には中国の郡(現在の日本でいう県のようなもの)がおかれ、これ以降中国の影響をより一層受けることとなった。

→10世紀に唐が滅亡したことをきっかけに中国からの独立を目指す動きが活発になり、11世紀初頭(中国では北宋が成立していた)に大越国(李朝)として独立した。

李朝→陳朝→黎朝の順に王朝が変化したが、中国の官吏登用制度である科挙が行われたり、陳朝のころには漢字をもとにチュノムという文字が作られたりと依然として中国の影響を受けていた。

ベトナム中部

→2世紀末にチャム人が中国の支配から自立し、港市国家を建てた。この国はチャンパーと呼ばれ、一時滅亡するも立て直して17世紀まで存続した。中国の資料では、林邑→環王→占城と名前を変えて登場する。なお、ベトナム中部には2世紀中ごろに大秦王安敦なる人物が遣わした中国への使者が到達しており、大秦王安敦はローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスのことであるとされている。

カンボジアラオスメコン川流域)

→1世紀末に扶南が建国された。扶南は東南アジア最古の国家(港市国家)とされている。港のオケオではローマやインドの品々が出土しており、活発な貿易が行われていた。

→4世紀から5世紀にかけて、貿易によってインドの影響力が強まり、各地でインド化と呼ばれる変化が生じた。

→6世紀にはいるとクメール人によってヒンドゥー教の影響を強く受けたカンボジアが建てられ、扶南はこの時滅ぼされた。(これもインド化の一例)カンボジアは9世紀に都をアンコールに定め、12世紀にはここでアンコールワットが造営された。

カンボジア国旗。中央に描かれているのがアンコールワット(外務省より)

・タイ(チャオプラヤ川下流

→7世紀から11世紀にかけてモン人によりドヴァーラヴァティー王国が形成された。この国家では上座部仏教が信仰された。

→13世紀にはタイ人が建てたスコータイ朝が建国された。これがタイ人による最古の王朝である。スコータイ朝上座部仏教を信仰し、またタイ文字も作られた。

ビルマ(イラワディ川流域)

→1世紀ごろから9世紀ごろまでピュー人の国が建てられていた。

→11世紀にビルマ人によってパガン朝が成立し、ビルマ文字が作られ、ここでも上座部仏教が信仰された。

 

ここからは島しょ部の歴史を解説していきます。

スマトラ島

→7世紀にパレンバンを中心にシュリーヴィジャヤ王国が成立した。この国は唐に朝貢しており、義浄も訪れている。この国では大乗仏教が盛んであった。

・ジャワ島中部

→8世紀にヒンドゥー教マタラム王国(732~1222)や大乗仏教を信仰したシャイレンドラ朝が成立した。シャイレンドラ朝は初めは仏教が盛んに信仰されており、仏教寺院のボロブドゥールが建設されていたが、次第にヒンドゥー教の影響が強くなっていった。また、ジャワ島ではワヤンと呼ばれる影絵が生まれ、インドの「マハーバーラタ」などが演じられた。

ボロブドゥール寺院(22Kartika作、wikipediaより)

 

補足

インド化についてもう少し詳しく解説します。

インド化とはヒンドゥー教や統治方法、文字、神話、仏教などが貿易などを通して東南アジアに伝播し、各国の基礎となる文化が形成される際に受け入れられていったことを指します。最初にインド化したのは扶南であると考えられています。

インド化の一例としてチャンパーという国名はインド式の国名であり、またタイ文字などもインドの文字をもとにして作られています。

読んでいただきありがとうございます。次回からは古代中国世界について取り上げます。サブスクライブしていただけると励みになります。

 

南インドの貿易とチョーラ朝の活躍

前回はハルシャ王がヴァルダナ朝を建国したことに触れたが、この王朝はハルシャ王死後にすぐ滅亡してしまい、以降北インドではヒンドゥー教勢力が覇を争った。(これら勢力をラージプートと言い、その意味は神の子である。)

→ヴァルダナ朝は短命であったが、唐(中国)から玄奘が陸路で訪れ、ナーランダー僧院で仏教を学び、帰国後に大唐西域記を著している。ちなみに、玄奘西遊記のモデルであるとされている。また、7世紀には義浄も海路でインドを訪れ南海寄帰内法伝を著している。

→なお、6世紀半から始まるバクティ運動(仏教やジャイナ教を攻撃し、ヒンドゥー教の神を崇拝する運動)により、インドでは仏教は衰退した。

青線が「海の道」

南インドでは、ドラヴィダ人タミル語を用いて生活しており、北インドとは異なる文化が形成されていた。

クシャーナ朝がそうであったように南インドの王朝もインド洋を通じてローマと貿易を行っていた。南インドではローマだけでなく、東南アジアや中国とも取引を行っており、これらの貿易航路は「海の道」と呼ばれており、周辺地域では港町を中心に都市国家が建設された。

→海の道には特にチョーラ朝がかかわっており、10世紀から11世紀にかけてはスリランカおよび東南アジアへの軍事遠征や中国(当時は北宋)への使節派遣などを積極的に行っていた。チョーラ朝は中央集権的な国家であったが、13世紀後半にチョーラ朝から離反したパーンディヤ朝とカーカティーヤ朝に滅ぼされた。

チョーラ朝の領土(Venu62作、wikipediaより)

 

まとめ

玄奘と義浄 ともに唐代の僧で、玄奘は陸路でインドへ、義浄は海路でインドへ行った。玄奘大唐西域記、義浄は南海奇帰内法伝を著した。

バクティ運動 仏教やジャイナ教を攻撃し、ヒンドゥー教の神を崇める。玄奘がインドへ訪れたころにはすでに仏教は衰退を始めており、ガンダーラは廃墟となっていた。

海の道 南インドの王朝がローマや東南アジアなどと貿易するときに用いた海路のこと。チョーラ朝が代表的な王朝として知られている。

読んでくださりありがとうございます。次回からは古代東南アジア世界について取り上げます。サブスクライブしていただけると励みになります。

 

グプタ朝時代のインド

3世紀後半のインド(特に北部)では、クシャーナ朝の衰退により政治的に不安定な時期が続いていた。

→4世紀にはいるとクシャーナ朝下で有力な領主であったグプタ家が台頭し、チャンドラグプタがグプタ朝としての地位を確立した。

グプタ朝の領土(Gabagool作、wikipediaより)

→チャンドラグプタ2世の時代に最盛期を迎え、南インドの王朝とも関係を深めた。

グプタ朝は西方に領土を拡大していき、その支配地は分権的に統治した。中央部は国王が直轄したり、従来の支配者に統治を任せたりし、周辺部は領主に統治させた。(封建制度のようなものである)

→国内ではバラモン教が再び力を持つようになり、サンスクリット語公用語とされた。(仏教やジャイナ教も依然として盛んであり、東晋から法顕が訪れている。)また、ヒンドゥー教が社会に浸透し始めたのもこの頃である

→文学も栄え、インド古典文学は黄金期を迎えた。二大叙事詩として知られる「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」が作られたのもグプタ朝時代であり、マヌ法典が完成したのもこの時代である。また、シャクンタラーの作者として知られるカーリダーサはチャンドラグプタ2世につかえた人物である。

→また、インドで生まれたことで有名なゼロの概念もグプタ朝時代に生まれたもので、天文学や数学が高度に発達していたことが伺える。

グプタ様式の壁画。ガンダーラ美術のようなヘレニズム要素がなくなり純インド的になった。

→やがて、遊牧民族のエフタル(エジプトを襲ったのはヒクソス)の侵入を受けて衰退し、戒日王ことハルシャ王によってヴァルダナ朝が成立した。

 

まとめ

グプタ朝 4世紀に成立、チャンドラグプタ2世の時代が最盛期。サンスクリット語公用語とされ、ゼロの概念も生まれた。グプタ様式が発展し、ガンダーラの影響を排した純インド美術が生まれた。エフタルの侵入により衰退した。

 

クシャーナ朝時代のインド


マウリヤ朝が衰退するにつれて紀元前2世紀ごろからギリシア人やイラン人が西北インドに進出してきた。

→紀元前1世紀になると匈奴と呼ばれる遊牧民に追われてクシャーン人がインドに進出し、ギリシア人にかわってインドを支配するようになり、クシャーナ朝が成立した。

→2世紀前半のカニシカ王の時代に最盛期を迎えた。この時代に都はベグラームからプルシャプラに遷され、領土もガンジス川中流まで拡大した。

左上の緑色の部分がクシャーナ朝の領域
(PHGCOM作、wikipediaより)

→また、カニシカ王は仏教を保護したとされ、その結果かはわからないがこの頃に仏教は中央アジアや中国に広まっていった。また、仏教の中でも新しい動きがみられ、万人の救済を目指す大乗仏教と出家者自身の悟りを目指す上座部仏教にわかれ、前者は中国など北方に伝わり、後者は東南アジアに伝わった。

→また、クシャーナ朝は交通路の要衝に位置していたため、商業が活発でローマとの取引も行われていた。ローマの貨幣を参考にした金貨が大量に発行された。

→仏像にも西方のヘレニズム文化の影響を見ることができ、ガンダーラを中心に仏教美術が栄えた。

菩薩像。衣装にヘレニズム文化の影響を見て取れる。(Ninara作、wikipediaより)

 

南インドではクシャーナ朝と同時期にサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)が成立しており、バラモンが南北を行き来したために南北の文化交流が進んだ。サータヴァーハナ朝でも仏教は保護され、またローマとの交易も行われていた。

 

まとめ

クシャーナ朝 クシャーン人によって建てられた。カニシカ王が最盛期。都はプルシャプラ

サータヴァーハナ朝 南インドで成立。王はバラモンを自称し、文化交流が進む。

大乗仏教 衆生の救済を第一とし、菩薩を信仰した。北方に伝わったため北伝仏教とも言う。

上座部仏教 出家者自身の解脱を第一とし、厳しい修行を行って救済を求める。小乗仏教とも言われる。

エリュトゥラー海案内記 1世紀ごろにギリシア人が記したとされる。インドの都市や交易について書かれている。

マウリヤ朝の成立

紀元前6世紀に入るとインド各地で都市国家が次々に誕生していった。また、都市国家の中で力をつけた武器武士階層や商人らの支持を得て仏教やジャイナ教といった新しい宗教も誕生した。また、これらの宗教に並行してバラモン教でも改革運動が起こり、ウパニシャッド哲学が誕生したことに加え、後にヒンドゥー教が誕生した。(↓まとめ)

→コーサラ国やマガダ国が台頭してきた。マガダ国は当時強大な軍事力を有していると噂されており、アレクサンドロス大王インダス川までで東方遠征を辞めて引き返したのにもマガダ国の噂が影響していた。
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マガダ国の支配領域

→この頃マガダ国ではナンダ朝が成立していたが、アレクサンドロス大王死後に西アジアセレウコス朝支配下となったのと同じ頃にチャンドラグプタによって倒された。(ナンダ家が王として君臨していた時代をナンダ朝という。イギリスという国家に現在ウィンザー朝が君臨しているのと同じことを意味する)

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濃い青の部分がアショーカ王時代のマウリヤ朝の支配領域。南インドでは巨石文化が広まっていた。

(Vastu作、wikipediaより)

→チャンドラグプタは王位に就き、紀元前317年頃にマウリヤ朝が建てられた。インド初めての統一王朝であり、都はパータリプトラに置かれた。マウリヤ朝は領土を拡張していき、西南インドとデカン地方をも支配した。3代目のアショーカ王の時代には仏教が重んじられるようになり、ダルマ(法)による統治が行われ、その理念はインド各地の岩や石柱に刻まれた。また、仏典の結集も行われ、仏教が各地に広まっていった。

アショーカ王の死後、広大な領土と官僚機構、軍隊が財政を圧迫し、また、バラモン教を重んじなかったためにバラモンらの反発を招き、急速に衰退していった。

 

まとめ

仏教 開祖はガウタマ・シッダールタ(いわゆるブッダ)、ヴァルナ制を否定し、人間の心の内面を重視して輪廻転生からの解脱を説いた。

ジャイナ教 開祖はヴァルダマーナ、仏教と同じくバラモン教の祭式を否定した。苦行と不殺生を徹底した。

ウパニシャッド哲学 宇宙の本体たるブラフマンと人間の本質であるアートマンは本来1つのものであると考え、同一性を悟ることで解脱することを目指したもの。

ヒンドゥー教 ヴェーダの神々(バラモン教の神々)から代わってシヴァ神ヴィシュヌ神を崇拝した。牛が神聖な動物とされている。


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創造と破壊の神とされるシヴァ神

(Gururaj Malekar作、wikipediaより)

マウリヤ朝 チャンドラグプタ王が建てた。3代目アショーカ王の時代に最盛期を迎え、仏教を重んじた。