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後漢の政治と文化の展開

追記:何故かサムネイルがメガネになっています🤔

前回は劉秀が漢を再興し、後漢が成立したところまでを解説しました。今回は後漢の政治と「漢」を通しての文化を解説します。

→劉秀はまず都を長安から洛陽に遷した。(劉秀は光武帝と呼ばれ、日本では「委奴国王」印を授けたことで知られている。

福岡県で出土した金印

→しかし、宦官と豪族の対立が深まり、二度にわたる党錮の禁を経て混乱が起こる。

豪族は大土地を所有し、農民を支配下に置くことで基礎を固め、さらに郷挙里選と呼ばれる官吏登用制度のもとで官僚となり、力を持つようになっていた。

→184年に黄巾の乱が起こり、220年に後漢は滅亡した。ちなみに、黄巾の乱の黄巾とは、この乱を主導した宗教結社「太平道」の思想に元づくものである。

・漢代を通して法家や道家の思想より儒教の思想が重視されるようになっていった。これは、前漢武帝時代に董仲舒(とうちゅうじょ)という人物が儒学を官学とすることを勧めたからであり、漢代には「五経」(易経詩経書経、春秋、礼記)が重要経典とされ、鄭玄(じょうげん)に代表される人々によって経典の解釈を研究する訓詁学も生まれた。

・また、中華史の編纂も行われるようになり、前漢時代には司馬遷によって「史記」が著され、後漢時代には班固(はんこ)によって「漢書」が著された。これらの史料はいずれも「紀伝体」形式(人物にフォーカスして記述する)が用いられた。ちなみに、班固の弟に班超(はんちょう)という人物がおり、前漢に張騫が西域へ派遣されたのと同じように班超は後漢時代に西域に派遣されている。

後漢時代の領土

 

まとめ

後漢 劉秀によって再興された漢のこと。黄巾の乱により滅亡した。

訓詁学 儒教経典の軸解釈を重視する学問で、鄭玄などが知られている。

紀伝体 史記漢書で用いられた歴史記述の方法で、特定の人物について詳しく記述した。年号順で歴史を記述したものは編年体と呼ばれる。

次回からは古代中国文明が起こっていたころ(秦・漢時代)における中国北方民族の動向について解説していきます。読んでいただけると励みになります。