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「三国志」の舞台、魏晋南北朝の始まり

前回は主に中国の北方で勃興した民族や国家について取り上げました。今回は後漢が滅亡した3世紀(220年)から五胡が台頭していた4世紀の中国について解説します。

黄巾の乱が起こり後漢が滅ぶと、中国全土で再び混乱が起こり、各地で争いが起こった

後漢末期の軍人であった曹操の子の曹丕(そうひ)は漢の皇帝から帝位を譲り受け華北に「魏」を建国した。このように帝位を譲り受けて王朝が交代することを易姓革命では禅譲(ぜんじょう)という。

曹丕

→長江下流域では孫権によって「呉」が建国され、四川のあたりでは劉備によって「蜀」(しょく)が建国された。ちなみに、孫権孫子の子孫にあたり、劉備前漢の景帝に連なる人物である。

劉備

孫権


→魏が最も力をつけ、263年に蜀を滅ぼした。しかし魏は軍人の司馬炎(しばえん)によって帝位を奪われ265年に滅亡し、新たに「晋」が成立した。このように帝位を奪って王朝が交代することを易姓革命では放伐(ほうばつ)という。

緑が魏、黄色が蜀、赤が呉(玖巧仔作、wikipediaより)

→晋はその後、呉を倒して中国統一を果たした。

→前回解説したようにこの後帝位をめぐって八王の乱(290~306)が起こり、これをチャンスと見た五胡が中国へ侵入を開始し、五胡の一派である匈奴は晋の都であった洛陽を陥落させ、晋は滅んだ。

→晋の王族の一族であった司馬睿(しばえい)は江南へ逃れ、建康(南京)で晋の復興を果たした。このため、司馬炎による晋を西晋と呼び、司馬睿による晋を東晋と呼んでいる。

華北では西晋が滅んだことで様々な民族が入り乱れる状態になり、5世紀前半に鮮卑の一派である拓跋氏(たくばつし)によって北魏が建てられ、太武帝の時代に華北が統一された。なお。351年に前秦によって華北は一時統一されていたが、水の戦いで東晋に敗れ華北は分裂状態になっていた。

406年ごろの中国(トムル作、wikipediaより)

 

まとめ

魏晋南北朝時代 三国時代から五胡十六国時代そして隋の建国までを表す時代区分

三国 曹丕が魏を、孫権が呉を、劉備が蜀を建てた。魏が最も力をつけた

晋 魏の帝位を奪った司馬炎によって建国された。匈奴に滅ぼされたのち、建康で復興された。

北魏 五胡十六国時代の終わらせ、華北を統一した。