サクッとわかる高校世界史

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インダス文明とアーリヤ人

紀元前2600年頃、インドで最も古い青銅器文明のインダス文明が誕生した。インダス川流域のモヘンジョ=ダーロやハラッパーなどに代表される遺跡は計画的に作られており、その町並みは現在も伺うことができる。また、現在も未解読のインダス文字が使われていた。近年この文字は楔形文字との関連が指摘されている。


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モヘンジョ=ダロ(M.Imran作、wikipediaより)


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インダス文字

(World Imaging作、wikipediaより)

 

→紀元前1800年ごろから文明は急激に衰退し、都市から村落へ退行する地域も現れ始めた。インダス文明は都市の消失とともに滅亡し、アーリヤ人的な文化が見られるようになっていった。

→紀元前1500年にはアーリヤ人カイバル峠を超えてインド西北部に進出し、インダス文明の担い手とされるドラヴィダ人と共存するようになった。この頃の社会は格差のない部族的な社会であり、自然を崇拝し、様々な儀式が行われた。これら宗教に関することを集めた文献をヴェーダと呼び、「リグ=ヴェーダ」が最も有名である。紀元前1000年頃になると「サーマ=ヴェーダ」なども編纂された。このため、紀元前1500年から紀元前500年頃までをヴェーダ時代と呼ぶこともある。

→紀元前1000年頃よりアーリヤ人たちはガンジス川流域への移動を始めた。また、青銅器にかわって鉄器が使われるようになった。鉄器の普及によって農耕社会が成立し、次第に支配階級が生まれた。

→現在にも残るカースト制度はこのときに生まれた。アーリヤ人と先住民が共存する社会が成立する過程でヴァルナ制という4つに身分を分ける考えが生まれた。ヴァルナの頂点にはバラモンという司祭が君臨し、彼らが儀式を行った宗教をバラモン教という。その後、職業集団であるジャーティも成立し、ヴァルナ制とジャーティが合わさってカースト制度が成立したのである。


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ヴァルナ制 (世界の歴史まっぷより)

 

まとめ

インダス文明 ドラヴィダ人が主体、未解読のインダス文字を使用、計画的な都市の建設をしていた

バラモン教 司祭階級のバラモンらが儀式を行った。ヒンドゥー教のもととなった。

カースト制度 ヴァルナと呼ばれるバラモンクシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの4つの身分の分け方(概念)と、それをさらに細かく分けたジャーティという職業集団(排他的な共同体)が合わさって形成された。

ローマの文化

ローマは紀元前1000年頃にエトルリア人たちが王国を建てて以来、西ローマ帝国の滅亡までの約1400年間、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)も含めると2000年以上の長い歴史を持ち、それ故に様々な文化も生まれた。彼らの豊かな生活は古代ギリシャの哲学者セネカが「ローマ人は食べるために吐き、吐くために食べる」と形容したことからもうかがえるだろう。

→ローマはギリシャ支配下に入れ、その後ギリシャ文化を地中海全域に広めた。ローマ人たちはギリシャから得た知識を存分に活かし、応用していった。また、中世キリスト教世界で司祭らの公用語とされたラテン語もローマ人がもともと使っていたものである。

→ローマの土木、建築技術は現在でも高い評価を得ている。凱旋門やガール水道橋、コロッセウムなどが建設された。都市ローマには最大で100万人の人が生活していたとされている。


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ガール水道橋。世界遺産となっている。

(Ignis作、wikipediaより)


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コンスタンティヌス凱旋門

→また、ローマの法律は現代にも影響を及ぼしており、かつての元老院の呼び名であるセナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムムは現在のアメリカ合衆国上院であるユナイテッド・ステーツ・セネートの語源となっている。6世紀には東ローマ帝国ユスティニアヌス帝によって編纂された「ローマ法大全」はその集大成とされている。

→文学や哲学の分野でも様々な作品、考えが生まれた。アウグストゥス時代はラテン文学の黄金期と呼ばれ、ウェルギリウスの「アエネイス」などが有名である。また、歴史も記述され、ポリビオスやプルタルコスなどが有名である。哲学ではストア派が強い影響を与え、五賢帝のひとりであるマルクス・アウレリウス・アントニヌスは「自省録」を著した哲人皇帝として知られている。


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人皇マルクス・アウレリウス・アントニヌス

→自然科学も発達し、プトレマイオスによって天動説がすでに唱えられており、ルネサンスの到来までヨーロッパでは正しいとされていた。

 

まとめ

土木、建築 ガール水道橋、コロッセウム、凱旋門アッピア街道などが有名。

法律 十二表法から発達したローマ法は現代にも影響を及ぼしている。6世紀の「ローマ法大全」が集大成。

文学 ウェルギリウスの「アエネイス」やオヴィディウスの「転身譜」などが有名。

歴史 ポリビオスの「歴史」やカエサルの「ガリア戦記」が有名。

哲学 ストア派が強い影響を与えた。セネカキケロマルクス・アウレリウス・アントニヌスが活躍した。

自然科学 天動説が説かれた。百科事典である「博物誌」がプリニウスによって編纂された。

読んでいただきありがとうございます。次回からは古代インド世界について取り上げます。サブスクライブしていただけると励みになります。

キリスト教成立の歴史

先日突然登場したキリスト教はいつどこで誕生したのだろうか。今回はキリスト教の成立について取り上げます。

キリスト教パレスチナで1世紀に誕生した。 ユダヤ教の中でも律法を重視していたパリサイ派は偏見などに苦しむ人々を顧みることはなく、ローマ支配を受け入れていた。

パリサイ派形式主義にあるとイエスが批判し、彼は貧富の差のない神による愛と親切愛を説いた。救世主をギリシャ語にするとキリスト教となり、ここからキリスト教と呼ばれているのである。
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エス

パリサイ派からの嫌悪がらせによりイエスはローマへの反逆者として捕えられ、紀元後30年頃に処刑された。

→弟子たちはイエスを神聖化、ここでキリスト教が成立した。

→ペテロや通行などの好意によって布教が行われ、パレスチナ以外のキリスト教が蔓延っていた。また、教典は新約聖書旧約聖書であるとされた。

→しかし、ローマの宗教は多神教であったことに加え、皇帝礼拝を倹約したためにネロ帝やディオクレティアヌス帝によって強害を受けた。

→この間キリスト教徒たちカタコンベと呼ばれる地下礼拝堂を作って活動していた。


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パリのカタコンベ、頭蓋骨が並べられている

(イグニス作、wikipediaより)

→313年、コンスタンティヌス帝によってミラノ勅令が出され、キリスト教は公認された。その結果キリスト教は皇帝の保護のもとで勢力を拡大していた。アタナシウス派から三位一体説と呼ばれる考えが生まれ、正統義の根本となった。

→392年にはアタナシウス派キリスト教がローマの教となった。また、ササン朝を経由して唐代の中国にも伝播し、景教と呼ばれた。

 

まとめ

エス パリサイ派を批判し処刑された。人々からはメシアであると崇められた。

ミラノ勅令 コンスタンティヌス帝によってキリスト教が公認された。 また、コンスタンティヌス帝の時期には正統な教義を決める公会議も行われた

ローマ帝国の東西分裂

3世紀の危機と呼ばれる状況は284年に即位したディオクレティアヌス帝によって克服され、ローマ帝国は再建された。

→内外の危機に対処するため帝国を分割統治する必要性を感じ、帝国を東西に分けてそれぞれを正帝と副帝の2人が統治するテトラルキア(四帝文治制)という方法を取り秩序を回復した。また、ローマ再建にあたりディオクレティアヌス帝は帝国の防衛に重きを置き、軍の兵員を増やすとともに新たな税制を構築した。


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テトラルキアを象徴する像。四人の皇帝が肩を組む様子が彫られている。

ディオクレティアヌス帝は皇帝を神として崇めさせ、専制君主として統治を行ったため、これをもって元首政は崩壊し、専制君主制ローマ(ドミナトゥス)が成立した。

→305年にディオクレティアヌス帝が退位すると、副帝であったコンスタンティウスが西の正帝となった。コンスタンティウスは翌年に没したため、彼の遺児であるコンスタンティヌスが即位した。

コンスタンティヌス帝はそれまで迫害されていたキリスト教を公認するミラノ勅令を発して帝国の統一をはかり、また軍備を増強し属州統治における民政と軍事を明確に分離した。さらに、コロヌス税収を安定させる政策を行い、国際通貨として高い信用を得ることになるソリドゥス金貨をも発行した。

→330年には新しい都となるコンスタンティノープルを建設し、国政の担い手となっていた貴族層を再編した。

→337年3月、コンスタンティヌス帝は崩御ローマ帝国皇帝として初めてキリスト教の洗礼を受けた。

→数々の改革によって帝国の生存をはかったコンスタンティヌス帝であったが、重税による反乱と375年に始まるゲルマン人の大移動による帝国の混乱は収集がつかなくなり、テオドシウス帝時代の395年、ついにローマ帝国は東西に分裂した。


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東西に分裂したローマ帝国。赤が西ローマ帝国を表し、紫が東ローマ帝国を表している。

(Geuiwogbil作、wikipediaより)

コンスタンティノープルを都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とローマを都とする西ローマ帝国が成立した。

西ローマ帝国ゲルマン人の大移動に耐えられず、476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた。東ローマ帝国は1453年まで存続した。

 

まとめ

政治 元首政→専制君主

皇帝 ディオクレティアヌスコンスタンティヌス→テオドシウス

 西はローマ、東はコンスタンティノープル

ローマ帝国の成立と3世紀の危機

内乱の1世紀を平定したオクタウィアヌスは内乱時代に与えられていた権限を元老院へ返還すると申し出ると、元老院は尊厳者を意味するアウグストゥスの称号を与えた。(以外アウグストゥスとする)

帝政ローマの始まりである。(ローマ帝国)

アウグストゥスは表面上は共和政時代の制度を尊重し、自らを市民の中の第一人者を意味するプリンケプスと名乗った。このため、彼の政治は元首政(=プリンキパトゥス)と呼ばれる。

→以降200年間はローマの平和(パクス・ロマーナ)と呼ばれる時代となり、ローマは最盛期を迎えた。皇帝(元首)には5代目のネロ帝までカエサルの家系の人物が選出された。(アウグストゥスカエサルの姪の息子である)

→紀元後96年に即位したネルウァ帝以降5人の皇帝(ネルウァトラヤヌス、ハドリアヌ、アントニヌス・ピウスマルクス・アウレリウス・アントニヌス)を五賢帝と呼び、その時代を五賢帝時代という。

→2番目のトラヤヌス帝はダキアを属州とし、最大版図を築いた。


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トラヤヌス帝の胸像


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ローマ帝国の最大版図(117年)

(Tataryn作、wikipediaより)

→しかし、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の子ども(コンモドゥス)が皇帝に即位し、192年に暗殺されると、再び内乱がおこった。これ以降の混乱の時代を、軍人皇帝時代と呼んでいる。混乱の時代ではあったが、212年にはカラカラ帝によってアントニヌス勅令が出され、全ての自由人にローマ市民権が与えられたほか、インド(サータヴァーハナ朝)との交易も行われていた。

→3世紀に入ると東方でササン朝ペルシアが成立してローマに圧力をかけるようになり、ローマは軍事費の激増により財政が逼迫したため皇帝政治は経済に介入し、政治不安に加えて経済活動を極度の不振に陥った。この危機的状況のことを、3世紀の危機と呼んでいる。また、3世紀には裕福な市民が大土地を経営するようになり、貧困化して都市から亡命した下層市民を小作人(コロヌス)として働かせるコロナトゥスという生産体制が出来上がり、従来のラティフンディアに取って代わっていった。

 

まとめ

元首政ローマ オクタウィアヌス元老院からアウグストゥスと称号を与えられ、オクタウィアヌス自身は自らをプリンケプスと名乗った。実質的には帝政と変わらないが、あくまでも市民の中の第一人者たるプリンケプスによる青磁であるという態度を取った。

五賢帝 ネルウァトラヤヌス、ハドリアヌ、アントニヌのことを指し、トラヤヌス帝時代に領土が最大となる。ハドリアヌ帝はブリテン島に長城を築いた。

3世紀の危機 ササン朝ペルシアの圧迫による軍事費の増大、軍人皇帝時代の政治不安などのことを指す。(軍人皇帝時代とは、皇帝が軍団によって推戴されたり、軍人自身が皇帝となったりした時期のことを指し、3世紀の危機の危機は3世紀自体を形容して使用される用語である)

生産体制 奴隷制度を活用したラティフンディア→コロヌスという小作人を使役したコロナトゥスに代わった

 

 

 

 

 

ローマ共和政内乱の1世紀

度重なる戦争やラティフンディアの開始などによって貧富の差が顕著になると、これをなんとかして解決しようとした人物が現れた。グラックス兄弟である。

→兄のティベリウスグラックスは没落した中小農民に土地を与えることで再建し、強い軍隊を組織しようとした。しかし、護民官の再選に失敗すると、国法に反したとして殺された。このため、ティベリウスによる改革は失敗に終わった。

→弟ガイウス=グラックス元老院に対抗する勢力を確保することに努めたが、最後には3000人の味方とともに殺された。このためガイウスによる改革も失敗に終わった。

グラックス兄弟の改革に影響され、野心的な政治家が台頭してきた。彼らは元老院の伝統的な支配を維持しようとする閥族派と平民のために働くことを唱える平民派に分かれて争った。特に、閥族派のスラと平民派のマリウスは私兵を用いて争いあった。内乱の1世紀の始まりである。

→地中海各地では反ローマ闘争が開始され、同盟市は市民権を求めて反乱を起こし、剣闘士奴隷のスパルタクスも反乱を起こした。

→反乱を鎮圧するなどの功績をあげたポンペイウスコンスルに選出されたが、元老院は彼の功績を認めなかったため、彼は元老院閥族派に対抗してカエサルクラッススとともに第一回三頭政治を組織した。しかし、その後クラッススが亡くなるとカエサルポンペイウスは対立し、やがてカエサルが勝利して紀元前44年に独裁官に選出されたが暗殺された。
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カエサル統治下のローマ

(Alvaro qc作、wikipediaより)

カエサルの遺言により、後継者にはオクタウィアヌス、アントニヌス、レピドゥスが指名され、彼らは第二回三頭政治を組織した。


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オクタウィアヌスの像

→その後すぐにオクタウィアヌスとアントニヌスは権力争いを始め、オクタウィアヌスは紀元前31年、プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラと結んだアントニヌスをアクティウムの海戦で破り、権力争いに勝利した。


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クレオパトラ7世(クレオパトラは他にも存在する。)

オクタウィアヌスによって地中海は平定され、内乱の1世紀は終結した。同時にプトレマイオス朝エジプトは滅亡し、ローマの属州となった。(また、東アジアでは前漢時代の中国に仏教が伝来していた。)

 

まとめ

グラックス兄弟の改革 大土地所有者の土地を没収して無産市民に分配し、強い軍隊を組織することを目指したが失敗に終わった。その後、政治は閥族派と平民派に二分され、内乱の1世紀と呼ばれる時代を迎えた。

三頭政治 第一回はポンペイウスカエサルクラッススで組織され、第二回はオクタウィアヌス、アントニヌス、レピドゥスで組織された。

地中海へ拡大するローマ

重装歩兵を中心とするローマの軍隊は、ラテン人やエトルリア人の住む地域を征服し、紀元前3世紀にはイタリア半島の統一を果たした。

→紀元前264年から紀元前146年にかけてローマはフェニキア人の植民市カルタゴと対立し、3回にわたるポエニ戦争がおこった。第一次ポエニ戦争では、シチリア島がローマ領土となり、ローマはじめての属州が誕生した。(属州支配はイタリア半島以外の征服地で行われた)かのナポレオンが世界の名将にその名をあげたハンニバルカルタゴの将軍であった。第二次ポエニ戦争ハンニバルカンネーの戦いでローマに勝利し、滅亡の危機にまで陥れるが、ローマの将軍スキピオの活躍によりザマの戦いでローマはハンニバルを破り、最後にはローマが勝利した。
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カルタゴの将軍ハンニバル。第二次ポエニ戦争を開始した人物とされ、父のハミルカルもまたカルタゴの将軍であり、第一次ポエニ戦争で活躍した。

→紀元前2世紀にはマケドニアギリシャ各ポリスを支配下に置き、地中海を我がものとした。


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ローマ領土の変遷

(世界の歴史まっぷより)

ローマは征服した都市と個別に同盟を結び、それぞれに異なる権利と義務を与えた。都市は植民市、自治市、同盟市順に権利をもっていた。このように都市ごとに待遇を変えることでローマに対して団結して反抗することを予防した。このような統治方法を、分割統治という。

→戦争の長期化により、出陣していた中小農民の土地が荒れて農民が没落し、多くのものがローマ市流入した。無産市民となった彼らは属州からの恩恵を目にしてさらなる征服戦争を望んだ。また、属州で税を取り立てていた騎士階層は莫大な富をた。

→農民が手放した土地を購入したり、公有地を手に入れたりして自分の土地を広げ、奴隷を用いたラティフンディアをおこなうようにった。

→経済格差が深刻化するとともに、さらなる戦争で農民が没落し共和政が揺らぎ始める

 

まとめ

ポエニ戦争 第一次でシチリア島を獲得し初の属州とする、第二次ではハンニバルスキピオが活躍する。

戦争の弊害 中小農民が没落し、経済格差が広がり、共和政に陰りが見え始める。