サクッとわかる高校世界史

共通テストで戦える知識を提供します。学び直しにも最適です。高校と付いていますが範囲にとらわれずに歴史を扱います

AIとの会話して歴史のゴールについて考えたって話

電車に乗りながら歴史上で最も重要な年は何年だったと思うかという話をaiとしていたのですが、そもそも歴史の終着点(向かうべき方向)とは何なのかという話になり、面白かったので綴っておきたいと思います。

メモ書きみたいになるかもしれませんがご了承ください。清書するかもしれませんし、しないかもしれません。

 

さて、私は1848年が世界史上で最も重要な年であると思うと主張しました。この年はいわゆる「諸国民の春」の年であります。1848年単体では社会に大きな変化が起こっただとか、革命で地図が変わったとか、そういうことはありません。ちなみですがマルクスとエンゲルスによる「共産党宣言」はこの年に出されています。

 

この年単体では大きな変化はなかったと言いました。となると別に重要な年ではないのではないかと思われるかもしれません。しかし私はそうは思いません。

 

1848年の革命は失敗したが、政治や国家が特権階級によって運営されるものから、民衆によって運営されるものへと転換するきっかけになった年が1848年だと思うわけです。

パリでの革命に端を発し、民衆の意思は大きな「うねり」となって欧州全体に波及、やがて全世界に至りました。そして現在の世界の模範とされる民主主義が確立されたというわけです。

 

これに対してaiは、その「うねり」は民衆の自律的なものであったのか?:例えばナチスは宣伝によって民衆を誘導した。と反論しました。

私は、確かに民衆が完全に自らの意思によって行動したかは定かではない様に見えますが、その選択つまりこの例ではナチスを選択したのは紛れもなく国民ーいや国民の総体(うねり)であって、自律的であると言えるだろうと考えるわけです。

するとaiは、そのうねりは本当に直進的な意思の総体なのかと問うわけです。

たしかに、人間個人の思想に統一されたものはないでしょう。これはよく考える必要があります。

そこで私は、人間の意思の総体すなわち「うねり」とは、4次元ベクトルであると思ったのです。ご存じの通りベクトルは足し合わせることができます。そこまで詳しくはしりませんが。

4次元ベクトルとは、過去と未来の時間軸(過去と未来は別のベクトルと考えます。数学的には正しくないかも!)に、その総体(うねり)の重量+「壁」を意味します。

(もしかしたら既存の哲学者が唱えているかもしれませんが、哲学に疎いので先行研究があるかなどはわかりません。既存だったらごめんね。)

時間軸はいいでしょう。単に過去と未来の単純な歴史です。では重量とは何か、つまりそれは発言力です。先ほど私は1848年は政治が民衆の手に渡った契機であると申し上げました。しかしこの民衆は必ずしも非力ではなく、民衆にも種類があります。たとえば、軍事力を持つものや資本を持つものです。かれらの「うねり」と無産市民の「うねり」には重量に違いがあります。つまり重量とはベクトルを強化する重みのことであります。

少し説明が下手かもしれませんが…

また、「壁」とは、「うねり」が選択した将来において、それが後世から見て失敗(言い過ぎかもしれませんが)であり、ベクトルを少し戻して進路変更を迫られた状態のことを指します。例えばナチスは崩壊し、ヴァイマル共和政時代の民主主義、尤も中身は違うでしょうが、がドイツに戻りました。つまりひと言で言えば迷路ということです。

もちろん民主主義(共和主義)が絶対であるとも思っていません。

となるとaiは、その「うねり」に方向性は無いのではないかと言うわけです。

私はそうは思いません。この民衆によるうねりは短期的で単純なもの、つまり目先のことだけを考えて生じていると思うからです。だれが10年後を正確に予言できましょうか。そんな事ができる人間はいませんし、当たったらほぼ間違いなくまぐれです。

目先のことだけ考えているなら、歴史には連続性はなく単なる偶然の連続ではないかとaiは言うわけです。

では私の歴史のゴールを提示しましょう。ゴールというと少しニュアンスが違うかもしれません。どちらかというと終焉でしょうか。

それは人類文明の終焉であります。結局進歩主義じゃないかと思われたかもしれませんが、そういうことを言ってるわけではありません。少なくともそんなつもりではないです。

つまり「うねり」とは、人類文明が終了するその日まで、人間の総体の意思として短期的な方向性を位置づけ、それが積み重なっていくことで一つの道筋となり、やがて歴史になるということです。カーの言葉を借りれば歴史とは過去との相互関係でありますので、人類文明終了の1年前の歴史家が見る歴史、それこそが人間の総体「うねり」の方向であり歴史なのではないかと言うことです。

なかなか面白いなと思うと同時に、aiの発展に驚かされたというところです。気づいたら歴史哲学の話になるという、、。

繰り返しますが、誰かが既に主張してたらごめんなさい。初めてだったら私が考案者なので、これを「有向線分史観」と名付けておきます。

ランケ以前の歴史:普遍史から歴史学へ

昨日投稿したノルマン=コンクエストで合計100記事を突破しました。いつもありがとうございます。ここまで書いてきたわけですが、大きな話題についてまだ取り上げていなかったので、ここで書きたいと思います。というのも、「ランケ以前の歴史はどう記述されたのか」ということに触れていませんでした。歴史の父ヘロドトスはあまりにも有名ですがそれ以降はランケの時代まで有名な歴史家はあまり多くないように思いますし、その時代(中世)の歴史観のようなものについて知る機会もないように思います。

 

ということで今回は中世ヨーロッパの歴史観について書きたいなと思います。

この部分に関しては多数の知識人たちが書物を著していますが、さすがに全員を取り上げることは難しいので、ここではアウグスティヌス、ボシュエ、ヴォルテール、ランケを主に取り上げていきたいと思います。

 

歴史とは、歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去のあいだの終わりのない対話なのです。:E・H・カー「歴史とは何か」

この言葉はかの有名な歴史家カーのものです。歴史とは何のかということについては長年にわたって様々な議論がされてきました。まずは普遍史について見ていきましょう。

 

普遍史とは

普遍史とは、キリスト教の聖書に基づいて構成される歴史観のことです。具体的には天地創造からペルシアやギリシアといった帝国までの時代を扱い、これら帝国が滅んだ後に終末が訪れ、神の国が出現するという物です。普遍史は3つの段階に分けることが出来、

①天地創造からアダムとイブ・大洪水、

②大洪水からアッシリア帝国

③アッシリア帝国からペルシアなどの帝国の時代

といった具合に分けられます。

神の国というのは天使たちの仲間に加えられた人々が住む国のことで、キリスト教における重要な要素の一つです。そしてこの普遍史を書いたことで有名な人物がアウグスティヌスです。アウグスティヌスは4世紀半ばから5世紀前半にかけての人物で、一時期マニ教を信仰し、後にキリスト教の司教として活躍しました。

アウグスティヌス

アウグスティヌスは「神の国」(本の名前)の中で歴史は地上の国と神の国の二項対立の中で、神の教えを受けて神の国が発展していくものであるとしました。地上の国は最後の審判において消滅し、最後には神の国のみが残るとされました。

アウグスティヌスはローマ帝国が滅亡することを終末と考え、その後に神の国が現れると考えていました。しかし、ご存知の通り(西)ローマ帝国が滅亡しても神の国なるものは出現しませんでした。つまり、アウグスティヌスの歴史に誤りが生じたわけです。

アウグスティヌス「神の国」

これを修正したのがフライジングのオットー(12世紀半ば)という司祭でした。彼はフランク王国のカール大帝から神聖ローマ帝国を普遍史に取り入れ、ローマの皇帝権はフランクに継承された、つまりローマはまだ滅んでいないのだと解釈しなおしました。これにより終末はまだ訪れていないことになり、普遍史観は啓蒙思想が出現する18世紀までヨーロッパで受け入れられていました。

 

これで一応の体裁は保てたように思われた普遍史ですが、時代はルネサンスに突入、キリスト教以前の人間を見つめる機運が高まっていきました。さらに17世紀には科学革命が起こり、聖書を参照して記述された普遍史は批判の対象となったのです。

 

これに対応すべく1681年に「普遍史」を著したのがボシュエです。彼はフランスのルイ14世に仕えた人物で王権神授説を唱えたことで広く知られています。ボシュエは初期キリスト教時代から人間は少しずつ堕落してきているという考え方を持っていました。この考え方は古代派と呼ばれ、当時の主要な歴史観の一つでした。

ボシュエ

ボシュエの歴史は天地創造からスタートし、カール大帝による西ローマ帝国の復活を終点としています。ここからわかる通り、かつては歴史=ローマまでだったのです。

ボシュエは特にローマ帝国を中心に据え、コンスタンティヌス帝によるキリスト教公認は神の意志の実現であり、またカール大帝による復活は教会が帝国の支配者になったという文脈で位置づけました。ボシュエはアウグスティヌスのような二元論を放棄し、人間の動きに着目しました。なぜなら、人間の行動の根底には神があると考えられたからです。なお、ボシュエ以外もそうですが、普遍史においてヨーロッパ以外の地域は基本的に歴史の対象とされていません。

 

ボシュエによって再構築された普遍史ですが、科学の発展には勝てませんでした。自然科学の分野では地球自体の歴史と天地創造の時期に齟齬があることが指摘され、また「神」の存在それ自体も批判の対象となっていったのです。18世紀、ヨーロッパ社会はいわゆる啓蒙思想の時代を迎えるのでした。

 

ここからは啓蒙思想の大家ヴォルテールの歴史観について見ていきます。ヴォルテールは政治史ではなく、文化や習俗などを中心に据え、「事実」を重視しました。つまり聖書に基づく歴史観を捨て、科学に基づく歴史観を構築しようとしたのです。もっとも、ヴォルテール自身は神やキリスト教を全否定していたわけではありませんが、、、

ヴォルテール

ヴォルテールは文量こそヨーロッパの方が多いものの、アジアなどヨーロッパ外の地域についても歴史に組み込んでいきました。特に中国についてはその道徳性などを高く評価していました。同時に、かつてヨーロッパよりも進んでいたアジアをヨーロッパが追い越したことも強調しました。また、ヨーロッパが絶対的優位なのではなく、アジアが再びヨーロッパを超えることも想定していたとされています。

 

このように啓蒙主義によって普遍史は批判にさらされ、非ヨーロッパと事実を重視する歴史が構築されるようになっていったのです。ここで、事実を重視した歴史家として最も高名なレオポルト=フォン=ランケについて述べたいと思います。もちろんこの時代にはヘーゲルなど重要人物が多数活躍していますが、今回は割愛します。

近代歴史学の父とも称されるランケは啓蒙主義のような人々を教え導く歴史ではなく、歴史事実の個別性、事実性を重視した歴史を構築しました。つまり実証的な歴史学であり、啓蒙主義とは別物であることに注意が必要です。ランケはこの事象への正確な理解に加えて、一貫した普遍性が無ければならないと考えました。つまり、ランケは歴史の関係性に着目していたのです。

 

このようにして、キリスト教の聖書を中心に据えた普遍史は今日の私たちの知る事実に基づく「歴史」へと至ったのでした。21世紀にはインターネットの急速な普及により全世界が接続されることとなり、また教育は全ての人間にー少なくとも日本においてはー開かれたものとなりました。もはや歴史は知識人だけのものではなくなり、一人一人が歴史観を構築できるようになったのです。

近年、世界システム論やグローバルヒストリー、境域の人びとの歴史、男女論など新たな視点からの歴史が次々に考案されています。新しい視点から歴史を見つめ、そして現代社会を理解するという必要性に私たちは迫られているのです。

 

主要参考文献:

カー、E・H、近藤和彦(訳)「歴史とは何か 新版」岩波書店、2022年

小林淑憲「アウグスティヌスの社会思想」『季刊北海学園学園大学論集』70(1)、2022年

仲栄太郎「ランケの世界史像」『大阪學藝大学紀要 A, 人文科学』1956年

南塚慎吾「「世界史」の誕生:ヨーロッパ中心史観の淵源」ミネルヴァ書房、2023年

 

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「ノルマン=コンクエスト」とはなんだったのか

三日ぐらい休んでまた書き始めるつもりが、気づいたら3か月たっていました。時間の流れは早いですなあ。。。もう暑くて暑くて仕方ないですね。夏はこれからだというのに…

今回はいつもとは少し趣向を変えて、ノルマン=コンクエストについて書きたいなと思います。名前は聞いたことがある方も多いと思いますが、そこまで詳しく扱っているものを見る機会はあまりないように思います。投稿をサボってた期間中に色々と智識を仕入れたので、今回は第一弾としてノルマン=コンクエストについて書いていきます。

 

まずそもそもノルマン=コンクエストのノルマンとは何かって話なのですが、ノルマンとはゲルマン人の一派のことです。彼らは主にスカンディナビア半島(現在のスウェーデンなど)のあたりに住んでいて、8世紀ごろから一部のノルマン人は各地で略奪行為を行っていました。彼等こそが世に名高いヴァイキングです。

本当かどうかは知りませんが、ヴァイキングはアメリカ大陸にまで到達していたなんて話も聞いたことがあります。

10世紀の初めにはロロという人物によって北フランスにノルマンディー公国が建国されました。このさいロロはゲルマン人の土着信仰からキリスト教に改宗しています。この公国の君主、ギョーム2世がノルマン=コンクエストの主役と言ってよいでしょう。ギョーム2世はロロから約100年後のノルマンディー公で、おそらくは征服王ウィリアム1世の名で知られています。

ギョーム2世



さて、ここまででノルマン人側の基礎知識について述べてきました。ここからはイングランド側についても見ていきます。

 

イングランドにはこれまたゲルマン系のアングロ=サクソンと呼ばれる人々が移住しており、9世紀には王国を建国していました。ノルマン人に征服される前の、つまり11世紀前半のイングランドでは、ウェセックス伯のゴドウィンという人物の一族が権勢を誇っていました。当時のイングランド王エドワードの妻もゴドウィン家の出身で、名をイーディスと言いました。ゴドウィンの息子であるハロルドは1053年にウェセックス伯を継承し、その後1066年にエドワードが亡くなると、ハロルドがイングランド王位を継承しました。ハロルドの力や血縁関係からして、その資格は十分にあったと言えるでしょう。ちなみにですが、このハロルドはハロルド2世の方で、1世ではありません。ハロルド2世はエドワードの跡を継ぎましたが、即位していた期間は僅か9か月ほどでした。

ハロルド2世



この王位継承に介入してきたのがギョーム2世でした。一見介入の余地はないように思われますが、血縁関係をさらにひも解いていくと口実が見えてきます。さらに、ノルウェー王ハーラル=ハルドラーダも王位を主張していました。

 

というのも、ギョーム2世はエドワードの母の兄弟の孫にあたる人物で、血縁関係があったのです。なおノルウェー王ハーラルについては、義理の兄弟がカヌートと交わした約束を根拠に王位を請求しており、血縁関係はありません。なかなかに無理やり感があります

 

このような状況の中で、ギョーム2世にとっては好都合な条件が揃っていました。まず第一に、フランス王アンリ1世が1060年に亡くなると、後継にはフィリップ1世が即位するのですが、フィリップは幼年であったためにギョーム2世の親戚の後見下にありました。これによりフランスによる介入は阻止されていたわけです。さらにアンジュー伯ジョフロワも1060年に亡くなっておりアンジュー伯領は混乱状態にありました。

加えて、スコットランドではノルウェー王ハーラルと共にイングランド王ハロルドに対抗するトスティイがおり、イングランドは北と南を同時に相手にする必要に迫られていました。トスティイという人物はハロルドの弟にあたる人物です。

 

さて、いよいよ征服が始まるのですが、一点注意が必要です。現代において国家は基本的に常備軍を有していますが、当時は常備軍という概念は存在せず、都度組織されていました。

イングランド王ハロルドはノルマン人を迎え撃つために軍を組織しましたが、信仰の様子が無かったために9月8日に解散し、同時期にスコットランドのトスティイがヨーク地方に侵入していたためそちらの対処に当たっていました。ハロルドはスタムフォード=ブリッジにおいてノルウェー王ハーラルとトスティイを破りましたが、その翌日にノルマン軍がペウェンジに上陸してきたのでした。

ノルマン軍が海峡を渡る様子

上陸後ノルマン軍はヘイスティングズに要塞を建設しました。これを受けてハロルドは急いで南下し、10月14日にノルマン軍とイングランド軍の戦闘となりました。この戦いこそがかの名高きヘイスティングズの戦いです。この戦いにおいてハロルドは目に矢を受けて戦死したとされています。イングランド軍は敗走し、ギョーム2世率いるノルマン軍の勝利が確定しました。

 

1066年にクリスマス、ギョーム2世はウェストミンスター寺院においてイングランド王ウィリアム1世として即位、ここに征服王ウィリアム1世が誕生しノルマン朝が開かれました。

 

これは当然のことかもしれませんが、イングランドは素直にノルマン人による統治を受け入れたわけではありませんでした。1070年代には各地でアングロサクソン系の貴族たちが反乱を起こしていました。彼らの反乱は次第に鎮圧され、大陸出身の貴族(ノルマンディー公国の貴族)が後釜に据えられていきました。統治方法は基本的にはイングランドに元からあったものを利用しました。中国の清王朝が明の制度を引き継いだことと似ていますね。

 

治世の後半に入るとイングランドの中枢を担う勢力はノルマン人となりました。ウィリアム1世を含めノルマン人貴族たちは元々のノルマンディー公国にも領地を持っていましたから、両方を支配していました。ウィリアム1世もノルマンディーに長期間滞在していたほか、中にはイングランドに根付いてノルマンディー側との関係が薄くなる貴族もいました。

 

ウィリアム1世は1087年、フランスとの戦いの中でなくなりました。ウィリアム1世に始まるノルマン朝はその後4代約100年に渡って続きました。

 

さてここで、どうやってノルマン人とアングロ=サクソン人はどうやって融合していったのかという疑問が残りましたね。これには主に二つの方法がありました。

まず第一には婚姻です。ノルマンディー公国から渡ってきた人物は主に男性で、イングランド貴族の娘などと結婚することで融合していきました。

また第二には教会の働きがあげられます。教会は地元の住民にとって現在の公民館のような機能も果たしており、交流の場となりました。

 

今回はノルマン=コンクエストについて書いていきました。久しぶりに執筆したのと、いつもより文章量が多く少し疲れました、、、

通史も書きつつ今回のような記事もどんどん出していきたいと思っていますので今後ともよろしくお願いいたします。

今回の主要参考文献はこちら:

朝治啓三ほか『中世英仏関係史1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年

山代宏道『ノルマン征服と異文化接触』「中世ヨーロッパに見る異文化接触」85--125頁、渓水社、2000年

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宗教改革⑤~カトリックの対抗~

前回までは宗教改革によってドイツやイギリスでプロテスタント勢力がカトリック教会から独立していく様子を見ていきました。では、従来のカトリック教会はこのとき何をしていたのでしょうか。今回はカトリック教会によるプロテスタントへの対抗について見ていきます。このことは一般に「対抗宗教改革」と呼ばれます。そのままですね。

→各地で宗教改革が進むのを受けてカトリック教会は思想統制や腐敗の防止に尽力するようになった。また、大航海時代の進展によって海外進出が始まっていたこともあり、カトリック教会は海外で信者を獲得しようと考えた。

→スペイン出身のイグナティウス=ロヨラがパリでイエズス会を立ち上げ、ローマ教皇の許可の下海外での布教活動を開始した。イエズス会の宣教師として有名なのがフランシスコ=ザビエルである。ザビエルはインドなどアジア方面での布教に従事し、1549年には日本を訪れた。当時の日本は戦国時代の真っ只中であった。

イエズス会の創立者イグナティウス=ロヨラ

→中国でもイエズス会は布教活動を行っており、先祖や孔子の崇拝を認める形で布教したために後々大きな問題を起こすことになった。(このことは清の項で取り上げます)

→また、イエズス会の他に以前から存在したドミニコ会やフランシスコ会なども布教活動に従事している。ドミニコ会は13世紀に南フランスで異端審問に従事していたことで知られている。

→宗教改革勢力と対抗宗教改革勢力の衝突は、布教合戦を招いただけではなく、魔女狩りをも招いた。魔女とされた人物は異端審問を受け、殺害された。なお、魔女とは言うものの性別は関係なかった。

フランシスコ=ザビエル。おそらく日本で最も有名な宣教師

今回で宗教改革についてはおしまいです。次回からは近世に入ります。

明日の更新はたぶんありません・・

 

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宗教改革の広がり④~ヘンリ8世の離婚とイギリス国教会の成立~

前回はスイスでの宗教改革について見ていきました。今回は大陸ヨーロッパから少し離れてイギリスにわたります。カルヴァン派イングランドピューリタンスコットランドプレスビテリアンと呼ばれていました。そんな中、イギリス国王もカトリックの影響を脱しようとしていました。これは高尚な理想によるものではなく、まさかの離婚が原因でした。。(ここでのイギリスとは、南半分のイングランドのことを言います。)

中世イギリス史については、こちらをご覧ください↓

 

sakureki.hatenablog.com

sakureki.hatenablog.com

百年戦争については後日加筆予定です。)

宗教改革が大陸ヨーロッパで起こっていた頃、イギリス君主はテューダー朝2代目の国王ヘンリ8世であった。(1509年~47年在)

ヘンリ8世はスペイン王家出身の王妃キャサリンと離婚しようとして反ローマ教会的な法律を制定させていき、イギリス国教会の基礎を作っていった。1534年には首長法を制定してイギリス国王がイギリス国内の教会のトップであるとしてカトリック教会の影響を排除した。ただし、このイギリス国教会は教義を見ると依然としてカトリック的であった。

イギリス国王ヘンリ8世

→教義面でもカトリック的なものからプロテスタント的なものに改革が図られた。これを行ったのが、ヘンリ8世の長男のエドワード6世時代になってからである。エドワード6世は「アウクスブルク信仰告白」を基準にプロテスタント化させていった。(「アウクスブルク信仰告白」は1530年のアウクスブルク帝国議会ルター派によってカール5世に対し出されたものである)

しかし、エドワード6世の治世は短く、すぐに代替わりを迎えた。

→次に即位したメアリー1世は、カトリックへの復帰を図ってプロテスタントピューリタン)を弾圧した。メアリー1世は「ブラッディ=メアリー」というあだ名を持つ。

メアリー1世。怖い感じに見えなくもない

メアリー1世カトリックを復活しようとしたものの、結局イギリス国教会は確立された。イギリス国教会を確立した国王がエリザベス1世である。

エリザベス1世は1559年に統一法を制定し、国教会を確立した。一方で国教会はカルヴァン派をモデルにしているものの、聖職階級が存在するなど、カトリック要素も併せ持っていたため、ピューリタンの中にはさらなる改革によってカトリック要素の徹底排除を主張した。なお、エリザベス1世は国教会に反対する者に対しては国教忌避者処罰法を制定して弾圧している。

 

今回はイギリス国教会の確立について見ていきました。宗教改革については次回の対抗宗教改革でおしまいです。

 

まとめ

ヘンリ8世 テューダー朝2代目の国王。6度の結婚を経験し、2人目の王妃は子供を流産した後処刑している。冤罪で処刑されたとされている。

イギリス国教会 ヘンリ8世の離婚問題に端を発して成立した。エリザベス1世時代に確立され、カルヴァン派の要素を持っていたが、カトリック要素もゼロではなかった。

 

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宗教改革の広がり③~スイス・フランスの宗教改革~

前回は宗教改革の重要な部分である領邦教会制の成立について、様々な勢力が影響しあって成立したというところを見ていきました。今回は、スイスとフランスでの宗教改革について見ていきます。ルター支持派はルター派と呼ばれましたが、ドイツ以外の地域での宗教改革では、別の名前が用いられました。これについても見ていきます。

→ドイツ以外の地域では、まずスイスのツヴィングリによって改革が行われた。ツヴィングリはチューリッヒで活動を開始し、600人規模の討論会を開催することに成功した。

これが万人司祭主義の成功例であるとされ、スイスやその周辺都市の宗教改革でこの方法による宗教改革が進められていった。これには、ツンフト闘争を経験したことが影響していた。このツヴィングリによる宗教改革の結果成立した派閥を、ツヴィングリ派と呼ぶ。

ツヴィングリ

sakureki.hatenablog.com

ツンフト闘争についてはこちらをご覧ください↑

→その後、フランス出身のカルヴァンが活躍した。カルヴァンは「キリスト教綱要」の著者としても知られている。カルヴァンはフランスで活動した後にジュネーブ宗教改革を展開した。カルヴァンは厳格な規律を重視し、予定説を説いた。予定説では、人間の救済は神によってあらかじめ決められているので、救済が予定されている人物は自ずから規律正しく、隣人愛を持った生活を行うというものである。

カルヴァン

予定説は、すなわち天職に励むべきだということと解釈され、市民の間で広く受け入れられていった。さらに、カルヴァンは蓄財を容認していた。(これまでキリスト教において蓄財は悪いこととされていた。)

→また、カルヴァンルター派が聖職階級を残したのに対し、聖職階級を否定して信仰に厚いものをリーダーとする長老制を確立した。(ルター自身も聖職階級が存在するのはおかしいと考えてはいた。)

このカルヴァンによる宗教改革の結果成立した派閥を、カルヴァン派と呼ぶ。

カルヴァン派は各地に広がり、フランスではユグノー、オランダではゴイセン、イングランドではピューリタンスコットランドではプレスビテリアンと呼ばれた。

宗教改革によって生まれた勢力は益々拡大し、カトリック(旧教)に対してまとめてプロテスタント(新教)と呼ばれるに至った。

 

まとめ

ツヴィングリ スイスで宗教改革を行った人物で、万人司祭主義を体現した。ツヴィングリによる宗教改革の結果成立したのがツヴィングリ派である。(ツヴィングリ派はカルヴァン派に合わせられ、まとめてカルヴァン派とされることもある。)

カルヴァン フランス出身で、スイスのジュネーブで活動した人物で、予定説を唱えた。また、フランス時代に「キリスト教綱要」を著している。カルヴァンによる宗教改革の結果成立したのがカルヴァン派である。

 

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今後の予定

皆さんこんにちは

今後の予定なのですが、通史をやりつつ違うこともやりたいなと思っています。

神聖ローマ帝国とは結局なんなの?

イラン・イスラーム革命とは?

境域の人々について

欧州移民と帝国主義

スンナ派シーア派はどう分かれた?

パッと思いつくだけでもこれらは書きたいなと思っています。参考文献ですが、山川出版社の教科書・資料集、ミネルヴァ書房の世界史関連書籍、中公新書講談社現代新書岩波新書などを普段利用しています。ネットの情報はオンライン辞書を使うくらいで、なるべく避けています

 

ではでは皆さん今後もよろしくお願いします〜

絶賛受験中の方は頑張ってください