サクッとわかる高校世界史

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遊牧民の登場と中国侵入

前回までは殷から漢にかけて中国を解説してきました。今回からは、この間(約1500年間)に登場した北方遊牧民について、晋が建国される直前までの動きを解説していきます。ここでは前回までに少し登場した匈奴や犬戎、そしてゲルマン人の大移動の原因となったフン人などを扱います。

 

ギリシアや中国と異なり、遊牧民族は自らの歴史を記述する文化を持っていなかった。そのため、史料で最初に登場するのは紀元前7世紀に台頭したスキタイである。犬戎はスキタイと同時期に鎬京に侵入した。

→スキタイは紀元前4世紀ごろにスキタイ文化を形成し、動物文様の武器などが作られた。また、このころ陰山山脈周辺では匈奴(きょうど)が台頭し、天山山脈周辺では烏孫(うそん)、タリム盆地では月氏(げっし)が台頭した。特に匈奴はスキタイ文化を吸収して勢力を増し、始皇帝とも戦いを繰り広げ、紀元前2世紀の冒頓単于(ぼくとつぜんう)のころには漢の劉邦に勝利している。

紀元前2世紀の勢力図(トムル作、wikipediaより)

→このころ月氏匈奴烏孫に圧迫されてモンゴル高原からバクトリアへ移動し、国家を形成した。これがのちの大月氏である。大月氏はのちのクシャーナ朝の元となった。また、烏孫もイリ地方へ移動し、匈奴討伐のため前漢と同盟を結んだ。

→紀元前54年、武帝に敗北した匈奴は東西に分裂し(東匈奴は漢に服属)、さらに紀元後48年には東匈奴はさらに南北に分裂した。中国に近い南匈奴は漢に服属し、北匈奴はフン人になったとされている。

匈奴と戦った漢の将軍、霍去病(かくきょへい)

→その後4世紀にはいると、勢力を盛り返した南匈奴に加え、鮮卑(せんぴ)、羯(けつ)、氐(てい)、羌(きょう)の五胡(五胡十六国の五胡はここからきているが、この時代には5以上の民族が乱立していた。)と呼ばれる民族が力を持つようになった。なお、氐と羌はチベット系の民族で、羯は匈奴の一派である。

 

五胡の勢力図(世界の歴史まっぷより)

→中国国内の混乱が収まり、「晋」が建国された。(ここの歴史は次回解説)しかし帝位をめぐって一族度同士が争う八王の乱が起こったことで晋の体制にゆるみが生じ、これを中華侵入の好機と見た匈奴によって晋は滅ぼされた。(この出来事を永嘉の乱という)

→その後、華北(中国北部)は五胡十六国時代に突入し、江南(中国南部)では晋の一族である司馬叡(しばえい)によって東晋が建てられた。

 

時系列

  • 紀元前8世紀 犬戎(犬戎は遊牧系とされるが詳細不明)
  • 紀元前7世紀 スキタイが史料で確認できる
  • 紀元前4世紀 匈奴が台頭、中国へ侵入
  • 紀元前2世紀 冒頓単于のもと匈奴が最盛期、劉邦に勝利。月氏バクトリアへ移動し大月氏建。烏孫前漢で同盟成立
  • 紀元前54年 前漢武帝に敗れ匈奴が東西に分裂
  • 紀元後48年 東匈奴が南北に分裂
  • 220年    後漢滅亡
  • 265年    晋成立
  • 4世紀    五胡の台頭

 

後漢の政治と文化の展開

追記:何故かサムネイルがメガネになっています🤔

前回は劉秀が漢を再興し、後漢が成立したところまでを解説しました。今回は後漢の政治と「漢」を通しての文化を解説します。

→劉秀はまず都を長安から洛陽に遷した。(劉秀は光武帝と呼ばれ、日本では「委奴国王」印を授けたことで知られている。

福岡県で出土した金印

→しかし、宦官と豪族の対立が深まり、二度にわたる党錮の禁を経て混乱が起こる。

豪族は大土地を所有し、農民を支配下に置くことで基礎を固め、さらに郷挙里選と呼ばれる官吏登用制度のもとで官僚となり、力を持つようになっていた。

→184年に黄巾の乱が起こり、220年に後漢は滅亡した。ちなみに、黄巾の乱の黄巾とは、この乱を主導した宗教結社「太平道」の思想に元づくものである。

・漢代を通して法家や道家の思想より儒教の思想が重視されるようになっていった。これは、前漢武帝時代に董仲舒(とうちゅうじょ)という人物が儒学を官学とすることを勧めたからであり、漢代には「五経」(易経詩経書経、春秋、礼記)が重要経典とされ、鄭玄(じょうげん)に代表される人々によって経典の解釈を研究する訓詁学も生まれた。

・また、中華史の編纂も行われるようになり、前漢時代には司馬遷によって「史記」が著され、後漢時代には班固(はんこ)によって「漢書」が著された。これらの史料はいずれも「紀伝体」形式(人物にフォーカスして記述する)が用いられた。ちなみに、班固の弟に班超(はんちょう)という人物がおり、前漢に張騫が西域へ派遣されたのと同じように班超は後漢時代に西域に派遣されている。

後漢時代の領土

 

まとめ

後漢 劉秀によって再興された漢のこと。黄巾の乱により滅亡した。

訓詁学 儒教経典の軸解釈を重視する学問で、鄭玄などが知られている。

紀伝体 史記漢書で用いられた歴史記述の方法で、特定の人物について詳しく記述した。年号順で歴史を記述したものは編年体と呼ばれる。

次回からは古代中国文明が起こっていたころ(秦・漢時代)における中国北方民族の動向について解説していきます。読んでいただけると励みになります。

 

 

外戚による国家「新」の誕生

前回は武帝以降の漢では宦官や外戚の台頭によって皇帝権力が弱まったというところまでを解説しました。漢はそもそも紀元前202年に成立したのですが、およそ200年後の紀元8年、ついに外戚である王莽(おうもう)によって乗っ取られてしまいました。今回は王莽の建てた国家について解説します。

→紀元8年、外戚として力を持った王莽は時の皇帝平帝(14代皇帝、へいてい)が亡くなると漢の皇帝を廃して自らが皇帝となり、「新」を建国した。

平帝の皇后の父親として力を持った王莽

→王莽は周の時代の政治を復活させようとして急激に改革を推し進めたために各地で反発を招いた。(周の政治は儒教において理想とされていた)

→紀元18年、赤眉の乱がおこった(せきび)

→この乱の最中に劉秀(りゅうしゅう)という人物によって漢は復興(後漢)され、新は滅んだ。

漢を復興した劉秀(のちに光武帝と呼ばれる人物)

 

まとめ

 外戚の王莽が漢に代わって建国し、周の政治を理想とした。赤眉の乱により滅亡した。

劉秀 赤眉の乱で勢力を伸ばした人物。漢の一族の人間で漢を復興し、現在では光武帝と呼ばれている。

 

新たな統一国家「漢」の登場

始皇帝崩御すると、秦は急速に滅亡に向かった。滅亡に向かう秦を倒し、新たな国家を建設しようとした人が現れるようになり、中でも庶民出身の役人の劉邦と楚の名門の血を引く項羽が覇を争った。俗にいう楚漢戦争の始まりである。今回は楚漢戦争の行方から漢(前漢)の国制までを解説します。

→楚漢戦争は当初項羽が優勢であったが、劉邦の元には韓信など有力な臣下が集まり、4年間の戦いを経て劉邦が勝利した。

高祖 劉邦

劉邦は皇帝に即位し、「漢」を建国した。劉邦は死後、高祖と呼ばれた。

劉邦は新たな都として長安を建設した。長安は漢が滅亡した後もいくつかの王朝の都とされた。また、秦が急速な改革によって民衆の不満を生み滅亡したことを踏まえ、妥協策としてそれまでの封建制を残しつつ郡県制を取り入れる郡国制を採用して統治に当たった。

→朝廷は少しずつ諸侯の力を削いでいったため紀元前154年に呉楚七国の乱が起き、これをきっかけに郡国制は事実上崩壊し郡県制となった。(この時の皇帝は第六代景帝である)

武帝の時代になると、対外戦争が積極的に行われるようになり領土が拡大していった。北方では匈奴を攻撃して中華への侵入を退け、また西方(西域という)には張騫(ちょうけん)を派遣して匈奴を滅ぼすための同盟を大月氏と結ぼうとし、そのときに張騫が得た西域に関する情報を元に西域にも領土を広げていった。(同盟は失敗に終わった)朝鮮半島も征服し、当時半島を支配していた衛氏に代わって楽浪などの郡(朝鮮四郡)を設置して支配した。南方のベトナム(南越)にも南海郡などを設置して支配した。

黄土色の部分が前漢の領域(玖巧仔作、wikipediaより)

→対外戦争の頻発により、財政難に陥る。桑弘羊(そうこうよう)を中心に様々な改革が行われ、なかでも均輸・平準がよく知られている。(失敗した)

武帝の死後宦官や外戚(皇帝の母方の祖父)が台頭し、漢は一時滅亡した。(再度復活するため、ここまでの漢を前漢と呼ぶ)

 

補足

郡県制と郡国制の違いについて 国内をいくつかの郡に分け、朝廷から役人を派遣して中央政府が土地を直接治めるやり方のこと。県は郡よりも小さい単位のこと(現在でいう県と市区町村のようなもの)一方で郡国制は、都の周辺は郡県制を用いて中央政府が直接統治し、都から離れているところは周が行ったのと同じように諸侯(豪族や貴族のような存在のこと)に土地を治めさせるやり方のこと。

均輸・平準について 均輸とは物価の安定を図るため各地から特産品などの物資を納めさせ、物資が不足しているところへ転売する方法のことで、平準とは物資が余っているときは市場に出すのを控え、物資が不足し物価が上がっているときは市場に売り出すもので、物価を抑制する方法のこと。

戦国時代を制し始皇帝を名乗った「秦」

西の大国「秦」は紀元前221年、戦国の七雄を全て倒し、中華統一を果たした。秦が中華を統一する過程はここに書ききることができないのでまたの機会に解説したいと思います。秦が中華を統一することができたのは諸子百家の一人であり、法家に分類される商鞅による改革の成功によるものでしょう。今回は商鞅の改革から始皇帝の統治手腕までを解説していきます。

→紀元前4世紀に活躍した商鞅は秦の孝公につかえた。什伍の制と呼ばれる戸籍制度や法治主義の考えを導入し秦の国力アップに寄与した。(なんの偶然かローマで十二表法が制定されたのもこの頃で、積極的に法律が運用され始めた時期が東西で被っている)

→国力をつけた秦は東方への進出を開始し、紀元前221年には東方の大国「斉」を滅ぼして中華を統一した。

→秦王「政」は始皇帝の称号を用い、中央集権国家の構築を進めた。郡県制が全国に導入され、中央政府から役人を派遣し、郡県の統治をおこなわせた。また、それまで国ごとに異なっていた通貨や車幅、文字などを統一した。(秦では半両銭が用いられた)

秦の始皇帝

半両銭。半両の文字が見て取れる


→さらに、儒教を排斥して儒者を生き埋めにし、医薬、占い、農業以外の書物を焼いて思想の統制を図った。この出来事は焚書・坑儒と呼ばれている。(坑儒の坑は土へん)

→現在観光地になっている万里の長城を修築も行われ、南方では南海郡などの郡を

三つ設置した。長城の北には匈奴と呼ばれる遊牧民が生活していた。

→土木工事や戦争で駆り出される庶民の負担はやがて限界に達し、始皇帝の死後すぐに陳勝呉広の乱(「王侯将相いずくんぞ種あらんや」の言葉で有名である)をはじめとする農民反乱が相次ぎ、また始皇帝の最側近の裏切りなども影響して15年ほどで秦は滅亡し、反秦勢力のなかから台頭してきた項羽劉邦が中華の覇を競う混乱の時代が再び訪れた。

現在の万里の長城は明の時代に修築されたものである(Hao Wei作、wikipediaより)

 

まとめ

秦 商鞅の改革以降力をつけ、紀元前221年に中華統一を果たした。法律を重視したが、厳しい政治は反感を買い、15年ほどで滅亡した。

始皇帝 秦国第34代国王「政」が名乗った。「光輝く神」を意味する。始皇帝以前の各国の君主は「王」を名乗っていた。

 

古代中国の偉大なる思想家「諸子百家」を一気に解説

新年度が始まりすこしドタバタしていました。今回は諸子百家を一気に解説していきます。諸子百家といえば孔子が最も有名ですが、ほかにも荀子孫子といった様々な思想家たちが諸子百家と呼ばれています。

儒家

親などの家族や目上の者を敬うことを説き、「仁」(まごころ)を実践することを説いた。また、性善説孟子)や性悪説荀子)の考えも儒家の思想の一つである。孟子は天子が悪政を行うと王朝が倒され、新たな王朝ができるという易姓革命を説いた人物である。法家、道家墨家とは対立していた。

代表者は孔子荀子孟子

孟子

墨家

自衛戦争以外の戦争を否定する「非攻」を説くとともに、家族のみならず隣人を分け隔てなく愛す「兼愛」を説いた。

代表者は墨子

道家

難しいことは考えず、自然の流れに従って生きる「無為自然」を説き、道教の元となった。

代表者は老子荘子老子は実在の人物ではないという意見もある)

牛に乗っているのが老子

・法家

法律によって国家を統治することを説いた。秦の始皇帝が重んじた。

代表者は商鞅、韓非、李斯

・兵家

兵法を説いた。現在でも軍隊では学ばれているとかなんとか

代表者は孫子

縦横家

戦国時代の外交政策を説いて回った。合従・連衡を説いた。

代表者は蘇秦張儀

蘇秦

陰陽家

天体と生活を結びつけた陰陽説とそれをもとに五行説を成立させた。

代表者は鄒衍(すうえん)

・農家

農業の重要性を説いた。

代表者は許行(きょこう)

・名家

西洋でいう哲学のようなもの。名家とは家のことではなく、概念のことである。

代表者は公孫竜

次回からは戦国時代を終わらせ中華統一を果たした西の大国「秦」について解説します。読んでいただけると励みになります。

春秋の五覇と戦国の七雄

周が洛邑に遷都して東周となり春秋・戦国時代時代が幕を開けると、「覇者」と呼ばれた各地の有力者が力を持った。

→斉の桓公や晋の文公などが特に知られており、彼らとあと三人の覇者を合わせて「春秋の五覇」という。

五覇のひとりとされる楚の荘王

春秋時代の後半には戦争が激しくなり、覇者たちはもはや周王を無視するようになり、自らを「王」と称した。

周王朝の下での秩序が崩れ、戦国時代が始まった。ちなみに、春秋時代の春秋とは、孔子の著書「春秋」からきており、戦国時代の戦国は「戦国策」という著書からきている。

→戦乱が続き小国が駆逐されていくと、七つの強国が覇を争うようになった。秦、楚、斉、燕、趙、魏の七か国は「戦国の七雄」と呼ばれている。(魯や衛といった小国も一応存在した。魯は孔子の出身地である)

戦国の七雄(Philg88作、wikipediaより)

→戦国時代に中国としてのまとまりが生まれるようになり、中国を世界の中心と考えて周辺国を夷狄(いてき)といい、中華に劣った存在であるという考えが生まれた。この考え方は一般に「華夷思想」と呼ばれている。この思想では、中華の北方を「北狄」、東方を「東夷」、西方を「西戎」、南方を「南蛮」と呼んだ。(後の時代の朝鮮では「小中華」という考えが生まれる)

→また、社会も変化し、大商人や自営農民が登場し実力主義の色が濃くなっていった。国家運営においても血統を重視していた時代は終わり、有能な人物を登用するようになった。

→様々な人が登用された結果、新しい思想がたくさん登場し、彼ら思想家は合わせて「諸子百家」と呼ばれている。彼らの思想は現在にも影響を与えており、孔子荀子といった有名人が諸子百家に数えられている。

孔子

 

まとめ

春秋の五覇 周王の権威の下で力をつけ、やがて王を名乗った。桓公や文公に加え、荘王、襄公、穆公などがいる。(五覇ではあるが候補とされる人物は七人いる)

戦国の七雄 戦国時代を代表する七国のこと。秦、楚、斉、燕、趙、魏を指す。

諸子百家 戦国時代の実力主義のなかで台頭した思想家。(次回解説)