サクッとわかる高校世界史

共通テストで戦える知識を提供します。学び直しにも最適です。高校と付いていますが範囲にとらわれずに歴史を扱います

ヨーロッパ近世のはじまり:太陽の沈まぬ国、スペイン

前回はポルトガルについて取り上げました。今回は予告通りスペインについて取り上げたいと思います。今回取り上げるスペイン絶対王政は、大航海時代で獲得した新大陸からの莫大な富によって覇権を握る大国となった時代の出来事でした。

予約投稿という機能を使い始めたので、毎日朝7時に投稿されていい感じです。まあ書かなかったら投稿されないんですが、、、

→スペインはハプスブルク家が王位を継承し、スペイン=ハプスブルク家が成立した。神聖ローマ皇帝カール5世も、スペイン=ハプスブルク家の人間であり、スペイン王としてはカルロス1世として知られている。

→カール5世時代にはすでに新大陸(ラテンアメリカ)からの銀などの富がスペイン本国にもたらされていたが、戦争と宮廷での消費に消えていき一般の民衆に恩恵がいきわたっていたわけではなかった。

→1556年、カルロス1世は退位し、息子であるフェリペ2世が神聖ローマ帝国を除くカルロス1世の領地を相続した。スペイン全盛期の到来であった。

1571年にはオスマン帝国をレパントの海戦で破り、80年にはポルトガルを併合して同君連合となった。またイタリア戦争の講和条約であるカトー=カンブレジ条約を結んだのもフェリペ2世の時代である。ただしすべてが順調に行っていたわけではなく、ハプスブルク家が治めていたネーデルラント(現在のオランダ・ベルギー周辺)では、スペインと同じ政策を採ったために反発を招き、やがて独立戦争が起こることとなった。

ちなみに、フェリペ2世の妻がブラッディ・メアリーとして知られるイギリスの女王メアリ1世である)

→最盛期があるということは、その後衰退が訪れるということでもある。1588年、スペインの艦隊、いわゆる無敵艦隊がアルマダの海戦でイギリスに大敗し、オランダも独立戦争の末に独立した。

アルマダの海戦の様子を描いたもの

→17世紀に入ると弱体化は顕著となり、1639年のダウンズの戦いでは海軍が、1643年にはロクロワの戦いでは陸軍が敗北し、スペインが軍事的優位を保った時代は終わりを迎えた。さらにその間の1640年にはポルトガルが反乱を起こし同君連合の時代は終結した。

ダウンズの海戦はオランダ独立戦争中に起こり、ロクロワの戦いは三十年戦争中に起こった

→スペインはその後も劣勢に立たされ、ヨーロッパではフランスが優位となる時代が到来した。

 

オランダ独立戦争と三十年戦争については別の機会に取り上げます。

ヨーロッパとオスマン帝国の関係についてのオススメ本はこちら。前回載せられなかったのでこちらで載せておきます。タイトルが表示されないみたい、、

新井政美「オスマンvs.ヨーロッパ〈トルコの脅威〉とは何だったのか」

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ヨーロッパ近世のはじまり:ポルトガルの絶対王政

前回はイタリア戦争について取り上げました。今回からは各国の絶対王政について見ていきます。大航海時代でも触れたと思うのですが、大航海時代の先駆けとなったスペインとポルトガルは中央集権化が他国よりも早かったという特徴があります。今回はスペインよりも少し先に大航海時代に乗り出したポルトガルについて取り上げたいと思います。次回はスペインです。今回は軽めかもしれません

→ポルトガルはスペインよりも少し早くレコンキスタを完了し、貴族らの支持を得てジョアン1世がアヴィス王朝を開いた。都はリスボンに置かれ、15世紀後半には本格的に海外進出を果たし、1498年にはヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰を通ってインドのカリカットに到達した。

ポルトガル王ジョアン1世



→ポルトガルは大西洋からインド洋に至る広大な海域を支配下におさめ、香辛料などアジアの産品を独占した。

→貿易でもたらされた強固な財政を基にして15世紀末から16世紀前半にかけて中央集権化が進み官僚制と常備軍が整えられた。一方で、以前触れたように社会全体に恩恵がいきわたったのではなく、特権階級のみが潤っていたのであった。

→16世紀半ばになるとイタリア商人によって陸路での香辛料貿易が行われるようになり、ポルトガルの優位が揺らいだ。海上覇権を維持するための費用は嵩むのに対して利益は少なくなってしまったため、貿易はかえって大きな負担となった。なおこの頃、国内では異端審問が活発に行われるようになっていった。

→さらに1578年には王位継承をめぐって混乱状態となり、貴族らの計略によって1580年にスペインのフェリペ2世がポルトガル王を兼ねることとなり、同君連合となった。

 

ポルトガルは大航海時代の先駆けとして中央集権化が進み、海上貿易の覇権も握ったものの、最終的にはスペインに併合されてしまったのでした。今回は非常に短くなってしまいましたが、概要はこんな感じです。次回はスペイン絶対王政について取り上げる予定です。

 

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「イタリア戦争」とはなんだったのか

前回から主権国家の話に入りましたので、ここで一つ主権国家同士の戦争であるイタリア戦争について取り上げたいと思います。イタリア戦争は15世紀末から16世紀末にかけての戦争であり、近世を語るうえで最も重要な戦争の一つです。名前だけは宗教改革のところで出てきたような気はしますが、詳しくは触れていなかったのでここで取り上げようと思います。

→直接の原因はシャルル8世によるイタリア侵攻であった。当時オーストリアなどを支配していたハプスブルク家のマクシミリアン1世は、当時オスマン帝国支配下となっていたコンスタンティノープルを回復するための十字軍を計画し、これを行うためにイタリアの諸勢力(イタリアは都市国家が乱立しており統一した国家は当時なかった)と連携しようとしていた。コンスタンティノープルはビザンツ帝国の都であったが、1453年にオスマン帝国が攻略していた。

マクシミリアン1世

→同時にフランス王シャルル8世もイタリアを狙っており、また十字軍意識もあったとされている。シャルル8世は1495年にナポリを占領しており、これを受けてマクシミリアン1世もイタリアに軍事的に介入することとなった。この介入は純粋に十字軍を先に起こしたいという意図もなかったわけではないだろうが、イタリアにおけるハプスブルク家の権益保護の側面があった。

シャルル8世

→このようにしてイタリア戦争は勃発し、特に神聖ローマ皇帝カール5世とフランスのフランソワ1世の時代が最も激しい対立の時代となった。(この二人の時期だけをイタリア戦争とすることもある)

→フランソワ1世は当初劣勢に立たされており、状況を打開するために東の大国との同盟を模索していた。それがオスマン帝国である。1520年代から両国はやり取りを開始しており、1525年には同盟関係が確認され、36年にはフランス商人のオスマン帝国における通商特権、いわゆるカピチュレーションがフランスに与えられている。また40年代に入るとカール5世に対する共同作戦を実施している。

→フランス・オスマン同盟の方が神聖ローマ皇帝よりも圧倒的に強そうに見えたが、実際には1544年にカール5世がフランスを不意打ちして破り、クレピーの和約を結んでいる。これによってフランスは北イタリアから一掃されることとなった。

→1559年のカトー=カンブレジ条約では、クレピーの和約が再確認されイタリアにおけるハプスブルク家(スペイン)の優位が確定、ここにイタリア戦争は終結した。

イタリア戦争の概要はこのようになっている。このオスマン帝国とフランスの同盟が宗教改革を加速させる要因となったのは以前にも触れたとおりであり、フランスは敗北したとはいえ決して無意味な同盟ではなかったのである。

 

sakureki.hatenablog.com

↑宗教改革とイタリア戦争についてはこちら

次回は各国における絶対王政の様子について見ていきます。やる気が出てるのでたぶん毎日出します。(たぶん)

なお、マクシミリアン1世は途中で神聖ローマ皇帝に即位していること、ハプスブルク家とオスマン帝国の対立は、スレイマン1世が自らのみが正統な「皇帝」であり、ハプスブルク家は皇帝位の僭称者であると考えていたためであること留意してください。

ハプスブルク家(スペイン)と書いた理由は後々(明後日くらい)にわかるかと思います。

 

ハプスブルク家についてはこちらの本が参考になるかと思います。

amzn.to

 

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ヨーロッパ近世のはじまり「主権国家」の出現

前回からこれまたずいぶんと時間が空いてしまいました。続けること自体はできるんですがスケジュール通りにやるのが非常に苦手でしてね、、、前回は宗教改革でしたので、今回からは近世に入って行こうと思います。近世と中世の違いはいくつか分け方があると思いますが、ここではキリスト教(教皇・教会)の力が強かった時代を中世、それらが十字軍などによって没落し、かわって王権が台頭した時代を近世としたいと思います。ビザンツ帝国の滅亡を以て近世とする説など様々ありますのでそこまで気にする必要もないかもしれませんね。

→王権が教皇権を優越した結果、国王が国家における最高権力者となり、国家の主権者となった。ここには国同士の戦争やそれにともなう軍事力の強化・徴税の最適化などが作用し各国で中央集権化が進んだ。

→国王を中心とした強力な中央政府によって統治される体制を絶対王政という。絶対王政においては明確に国境線が定められ、国境内に存在するものすべてに対して中央政府以外からの干渉を許さず、封建領主は国王の家臣となった。

→以上のことを達成するために絶対王政において重要視されたのは、官僚制常備軍である。官僚制は中央政府・国王を支え、常備軍は国境を維持し、ときには戦争に従事した。軍隊というと常に組織されている(常備軍)のが現代では常識かもしれないが、例外はあるもののかつては戦時に組織される臨時の存在であった。

→ただし、身分制度のような封建制時代からの社会システムは存続しており、現代のような立憲君主制とは一線を画すものであったことは注意しておきたい。貴族らは特権を持ち、ブルジョワジーと呼ばれる有産市民階級は経済を支配していた。

→経済システムとしては問屋制(といやせい)が成立した。これは商人が生産者(労働者)に生産に必要な資材を貸与し仕事をさせるというものであり、資本主義社会の源流に当たるものである。また、労働者個人個人に資材を貸与するのではなく、労働者を一か所に集めて作業させる工場制手工業も成立していた。

→このような絶対王政という政体による主権国家は少しずつ姿を変えながら現代にも存続している。次回からは各地における主権国家の歴史を見ていこうと思います。

絶対王政を象徴する君主の一人であるルイ14世
おまけ

封建制が崩壊して絶対王政による主権国家の時代が到来したのに、外見だけ変わって中身の身分制度などはなぜ維持されたのだろうと思いませんでしたか?

これについては考え方が二通りあります。絶対王政をどのように考えるかに当たってまず第一には封建反動の考え方があります。これはつまり、ペストの流行などによる封建制度の崩壊を危惧した封建領主が王権に保護を求め、封建制度の強化(反動)を求めたというものです。この場合であれば当然、支配階級が変わることはありませんね。

もう一つは、階級均衡論というものです。問屋制が成立したと先ほど書いたように、この時代にはブルジョワジーの台頭が起こりました。そうなると信仰の支配者層であるブルジョワジーと旧来の貴族・領主層は対立する恐れが出てきます。これを解決し均衡を図るために現れた(祭りあげられた)のが、強大な権力を持つ国王という第三者だったというわけです。

 

まとめ

主権国家 国境線を明確に定め、国王が国境内ですべての主権を行使し、諸侯らは国王の臣下となる。対外的には国王が国家の唯一の主権者(代表者)として振舞うという国家体制のこと。なお、国王ではなく女王の場合もある。(つまり君主ということ)

絶対王政 近世の主権国家において採用された政治体制の一種で、官僚制と常備軍を持ち、国王を中心とする中央集権的な政治システムであった。

 

参考によく使っている本です。良かったら見てみてください。(アフィリンクを初使用)

amzn.to

 

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AIとの会話して歴史のゴールについて考えたって話

電車に乗りながら歴史上で最も重要な年は何年だったと思うかという話をaiとしていたのですが、そもそも歴史の終着点(向かうべき方向)とは何なのかという話になり、面白かったので綴っておきたいと思います。

メモ書きみたいになるかもしれませんがご了承ください。清書するかもしれませんし、しないかもしれません。

 

さて、私は1848年が世界史上で最も重要な年であると思うと主張しました。この年はいわゆる「諸国民の春」の年であります。1848年単体では社会に大きな変化が起こっただとか、革命で地図が変わったとか、そういうことはありません。ちなみですがマルクスとエンゲルスによる「共産党宣言」はこの年に出されています。

 

この年単体では大きな変化はなかったと言いました。となると別に重要な年ではないのではないかと思われるかもしれません。しかし私はそうは思いません。

 

1848年の革命は失敗したが、政治や国家が特権階級によって運営されるものから、民衆によって運営されるものへと転換するきっかけになった年が1848年だと思うわけです。

パリでの革命に端を発し、民衆の意思は大きな「うねり」となって欧州全体に波及、やがて全世界に至りました。そして現在の世界の模範とされる民主主義が確立されたというわけです。

 

これに対してaiは、その「うねり」は民衆の自律的なものであったのか?:例えばナチスは宣伝によって民衆を誘導した。と反論しました。

私は、確かに民衆が完全に自らの意思によって行動したかは定かではない様に見えますが、その選択つまりこの例ではナチスを選択したのは紛れもなく国民ーいや国民の総体(うねり)であって、自律的であると言えるだろうと考えるわけです。

するとaiは、そのうねりは本当に直進的な意思の総体なのかと問うわけです。

たしかに、人間個人の思想に統一されたものはないでしょう。これはよく考える必要があります。

そこで私は、人間の意思の総体すなわち「うねり」とは、4次元ベクトルであると思ったのです。ご存じの通りベクトルは足し合わせることができます。そこまで詳しくはしりませんが。

4次元ベクトルとは、過去と未来の時間軸(過去と未来は別のベクトルと考えます。数学的には正しくないかも!)に、その総体(うねり)の重量+「壁」を意味します。

(もしかしたら既存の哲学者が唱えているかもしれませんが、哲学に疎いので先行研究があるかなどはわかりません。既存だったらごめんね。)

時間軸はいいでしょう。単に過去と未来の単純な歴史です。では重量とは何か、つまりそれは発言力です。先ほど私は1848年は政治が民衆の手に渡った契機であると申し上げました。しかしこの民衆は必ずしも非力ではなく、民衆にも種類があります。たとえば、軍事力を持つものや資本を持つものです。かれらの「うねり」と無産市民の「うねり」には重量に違いがあります。つまり重量とはベクトルを強化する重みのことであります。

少し説明が下手かもしれませんが…

また、「壁」とは、「うねり」が選択した将来において、それが後世から見て失敗(言い過ぎかもしれませんが)であり、ベクトルを少し戻して進路変更を迫られた状態のことを指します。例えばナチスは崩壊し、ヴァイマル共和政時代の民主主義、尤も中身は違うでしょうが、がドイツに戻りました。つまりひと言で言えば迷路ということです。

もちろん民主主義(共和主義)が絶対であるとも思っていません。

となるとaiは、その「うねり」に方向性は無いのではないかと言うわけです。

私はそうは思いません。この民衆によるうねりは短期的で単純なもの、つまり目先のことだけを考えて生じていると思うからです。だれが10年後を正確に予言できましょうか。そんな事ができる人間はいませんし、当たったらほぼ間違いなくまぐれです。

目先のことだけ考えているなら、歴史には連続性はなく単なる偶然の連続ではないかとaiは言うわけです。

では私の歴史のゴールを提示しましょう。ゴールというと少しニュアンスが違うかもしれません。どちらかというと終焉でしょうか。

それは人類文明の終焉であります。結局進歩主義じゃないかと思われたかもしれませんが、そういうことを言ってるわけではありません。少なくともそんなつもりではないです。

つまり「うねり」とは、人類文明が終了するその日まで、人間の総体の意思として短期的な方向性を位置づけ、それが積み重なっていくことで一つの道筋となり、やがて歴史になるということです。カーの言葉を借りれば歴史とは過去との相互関係でありますので、人類文明終了の1年前の歴史家が見る歴史、それこそが人間の総体「うねり」の方向であり歴史なのではないかと言うことです。

なかなか面白いなと思うと同時に、aiの発展に驚かされたというところです。気づいたら歴史哲学の話になるという、、。

繰り返しますが、誰かが既に主張してたらごめんなさい。初めてだったら私が考案者なので、これを「有向線分史観」と名付けておきます。

ランケ以前の歴史:普遍史から歴史学へ

昨日投稿したノルマン=コンクエストで合計100記事を突破しました。いつもありがとうございます。ここまで書いてきたわけですが、大きな話題についてまだ取り上げていなかったので、ここで書きたいと思います。というのも、「ランケ以前の歴史はどう記述されたのか」ということに触れていませんでした。歴史の父ヘロドトスはあまりにも有名ですがそれ以降はランケの時代まで有名な歴史家はあまり多くないように思いますし、その時代(中世)の歴史観のようなものについて知る機会もないように思います。

 

ということで今回は中世ヨーロッパの歴史観について書きたいなと思います。

この部分に関しては多数の知識人たちが書物を著していますが、さすがに全員を取り上げることは難しいので、ここではアウグスティヌス、ボシュエ、ヴォルテール、ランケを主に取り上げていきたいと思います。

 

歴史とは、歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去のあいだの終わりのない対話なのです。:E・H・カー「歴史とは何か」

この言葉はかの有名な歴史家カーのものです。歴史とは何のかということについては長年にわたって様々な議論がされてきました。まずは普遍史について見ていきましょう。

 

普遍史とは

普遍史とは、キリスト教の聖書に基づいて構成される歴史観のことです。具体的には天地創造からペルシアやギリシアといった帝国までの時代を扱い、これら帝国が滅んだ後に終末が訪れ、神の国が出現するという物です。普遍史は3つの段階に分けることが出来、

①天地創造からアダムとイブ・大洪水、

②大洪水からアッシリア帝国

③アッシリア帝国からペルシアなどの帝国の時代

といった具合に分けられます。

神の国というのは天使たちの仲間に加えられた人々が住む国のことで、キリスト教における重要な要素の一つです。そしてこの普遍史を書いたことで有名な人物がアウグスティヌスです。アウグスティヌスは4世紀半ばから5世紀前半にかけての人物で、一時期マニ教を信仰し、後にキリスト教の司教として活躍しました。

アウグスティヌス

アウグスティヌスは「神の国」(本の名前)の中で歴史は地上の国と神の国の二項対立の中で、神の教えを受けて神の国が発展していくものであるとしました。地上の国は最後の審判において消滅し、最後には神の国のみが残るとされました。

アウグスティヌスはローマ帝国が滅亡することを終末と考え、その後に神の国が現れると考えていました。しかし、ご存知の通り(西)ローマ帝国が滅亡しても神の国なるものは出現しませんでした。つまり、アウグスティヌスの歴史に誤りが生じたわけです。

アウグスティヌス「神の国」

これを修正したのがフライジングのオットー(12世紀半ば)という司祭でした。彼はフランク王国のカール大帝から神聖ローマ帝国を普遍史に取り入れ、ローマの皇帝権はフランクに継承された、つまりローマはまだ滅んでいないのだと解釈しなおしました。これにより終末はまだ訪れていないことになり、普遍史観は啓蒙思想が出現する18世紀までヨーロッパで受け入れられていました。

 

これで一応の体裁は保てたように思われた普遍史ですが、時代はルネサンスに突入、キリスト教以前の人間を見つめる機運が高まっていきました。さらに17世紀には科学革命が起こり、聖書を参照して記述された普遍史は批判の対象となったのです。

 

これに対応すべく1681年に「普遍史」を著したのがボシュエです。彼はフランスのルイ14世に仕えた人物で王権神授説を唱えたことで広く知られています。ボシュエは初期キリスト教時代から人間は少しずつ堕落してきているという考え方を持っていました。この考え方は古代派と呼ばれ、当時の主要な歴史観の一つでした。

ボシュエ

ボシュエの歴史は天地創造からスタートし、カール大帝による西ローマ帝国の復活を終点としています。ここからわかる通り、かつては歴史=ローマまでだったのです。

ボシュエは特にローマ帝国を中心に据え、コンスタンティヌス帝によるキリスト教公認は神の意志の実現であり、またカール大帝による復活は教会が帝国の支配者になったという文脈で位置づけました。ボシュエはアウグスティヌスのような二元論を放棄し、人間の動きに着目しました。なぜなら、人間の行動の根底には神があると考えられたからです。なお、ボシュエ以外もそうですが、普遍史においてヨーロッパ以外の地域は基本的に歴史の対象とされていません。

 

ボシュエによって再構築された普遍史ですが、科学の発展には勝てませんでした。自然科学の分野では地球自体の歴史と天地創造の時期に齟齬があることが指摘され、また「神」の存在それ自体も批判の対象となっていったのです。18世紀、ヨーロッパ社会はいわゆる啓蒙思想の時代を迎えるのでした。

 

ここからは啓蒙思想の大家ヴォルテールの歴史観について見ていきます。ヴォルテールは政治史ではなく、文化や習俗などを中心に据え、「事実」を重視しました。つまり聖書に基づく歴史観を捨て、科学に基づく歴史観を構築しようとしたのです。もっとも、ヴォルテール自身は神やキリスト教を全否定していたわけではありませんが、、、

ヴォルテール

ヴォルテールは文量こそヨーロッパの方が多いものの、アジアなどヨーロッパ外の地域についても歴史に組み込んでいきました。特に中国についてはその道徳性などを高く評価していました。同時に、かつてヨーロッパよりも進んでいたアジアをヨーロッパが追い越したことも強調しました。また、ヨーロッパが絶対的優位なのではなく、アジアが再びヨーロッパを超えることも想定していたとされています。

 

このように啓蒙主義によって普遍史は批判にさらされ、非ヨーロッパと事実を重視する歴史が構築されるようになっていったのです。ここで、事実を重視した歴史家として最も高名なレオポルト=フォン=ランケについて述べたいと思います。もちろんこの時代にはヘーゲルなど重要人物が多数活躍していますが、今回は割愛します。

近代歴史学の父とも称されるランケは啓蒙主義のような人々を教え導く歴史ではなく、歴史事実の個別性、事実性を重視した歴史を構築しました。つまり実証的な歴史学であり、啓蒙主義とは別物であることに注意が必要です。ランケはこの事象への正確な理解に加えて、一貫した普遍性が無ければならないと考えました。つまり、ランケは歴史の関係性に着目していたのです。

 

このようにして、キリスト教の聖書を中心に据えた普遍史は今日の私たちの知る事実に基づく「歴史」へと至ったのでした。21世紀にはインターネットの急速な普及により全世界が接続されることとなり、また教育は全ての人間にー少なくとも日本においてはー開かれたものとなりました。もはや歴史は知識人だけのものではなくなり、一人一人が歴史観を構築できるようになったのです。

近年、世界システム論やグローバルヒストリー、境域の人びとの歴史、男女論など新たな視点からの歴史が次々に考案されています。新しい視点から歴史を見つめ、そして現代社会を理解するという必要性に私たちは迫られているのです。

 

主要参考文献:

カー、E・H、近藤和彦(訳)「歴史とは何か 新版」岩波書店、2022年

小林淑憲「アウグスティヌスの社会思想」『季刊北海学園学園大学論集』70(1)、2022年

仲栄太郎「ランケの世界史像」『大阪學藝大学紀要 A, 人文科学』1956年

南塚慎吾「「世界史」の誕生:ヨーロッパ中心史観の淵源」ミネルヴァ書房、2023年

 

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「ノルマン=コンクエスト」とはなんだったのか

三日ぐらい休んでまた書き始めるつもりが、気づいたら3か月たっていました。時間の流れは早いですなあ。。。もう暑くて暑くて仕方ないですね。夏はこれからだというのに…

今回はいつもとは少し趣向を変えて、ノルマン=コンクエストについて書きたいなと思います。名前は聞いたことがある方も多いと思いますが、そこまで詳しく扱っているものを見る機会はあまりないように思います。投稿をサボってた期間中に色々と智識を仕入れたので、今回は第一弾としてノルマン=コンクエストについて書いていきます。

 

まずそもそもノルマン=コンクエストのノルマンとは何かって話なのですが、ノルマンとはゲルマン人の一派のことです。彼らは主にスカンディナビア半島(現在のスウェーデンなど)のあたりに住んでいて、8世紀ごろから一部のノルマン人は各地で略奪行為を行っていました。彼等こそが世に名高いヴァイキングです。

本当かどうかは知りませんが、ヴァイキングはアメリカ大陸にまで到達していたなんて話も聞いたことがあります。

10世紀の初めにはロロという人物によって北フランスにノルマンディー公国が建国されました。このさいロロはゲルマン人の土着信仰からキリスト教に改宗しています。この公国の君主、ギョーム2世がノルマン=コンクエストの主役と言ってよいでしょう。ギョーム2世はロロから約100年後のノルマンディー公で、おそらくは征服王ウィリアム1世の名で知られています。

ギョーム2世



さて、ここまででノルマン人側の基礎知識について述べてきました。ここからはイングランド側についても見ていきます。

 

イングランドにはこれまたゲルマン系のアングロ=サクソンと呼ばれる人々が移住しており、9世紀には王国を建国していました。ノルマン人に征服される前の、つまり11世紀前半のイングランドでは、ウェセックス伯のゴドウィンという人物の一族が権勢を誇っていました。当時のイングランド王エドワードの妻もゴドウィン家の出身で、名をイーディスと言いました。ゴドウィンの息子であるハロルドは1053年にウェセックス伯を継承し、その後1066年にエドワードが亡くなると、ハロルドがイングランド王位を継承しました。ハロルドの力や血縁関係からして、その資格は十分にあったと言えるでしょう。ちなみにですが、このハロルドはハロルド2世の方で、1世ではありません。ハロルド2世はエドワードの跡を継ぎましたが、即位していた期間は僅か9か月ほどでした。

ハロルド2世



この王位継承に介入してきたのがギョーム2世でした。一見介入の余地はないように思われますが、血縁関係をさらにひも解いていくと口実が見えてきます。さらに、ノルウェー王ハーラル=ハルドラーダも王位を主張していました。

 

というのも、ギョーム2世はエドワードの母の兄弟の孫にあたる人物で、血縁関係があったのです。なおノルウェー王ハーラルについては、義理の兄弟がカヌートと交わした約束を根拠に王位を請求しており、血縁関係はありません。なかなかに無理やり感があります

 

このような状況の中で、ギョーム2世にとっては好都合な条件が揃っていました。まず第一に、フランス王アンリ1世が1060年に亡くなると、後継にはフィリップ1世が即位するのですが、フィリップは幼年であったためにギョーム2世の親戚の後見下にありました。これによりフランスによる介入は阻止されていたわけです。さらにアンジュー伯ジョフロワも1060年に亡くなっておりアンジュー伯領は混乱状態にありました。

加えて、スコットランドではノルウェー王ハーラルと共にイングランド王ハロルドに対抗するトスティイがおり、イングランドは北と南を同時に相手にする必要に迫られていました。トスティイという人物はハロルドの弟にあたる人物です。

 

さて、いよいよ征服が始まるのですが、一点注意が必要です。現代において国家は基本的に常備軍を有していますが、当時は常備軍という概念は存在せず、都度組織されていました。

イングランド王ハロルドはノルマン人を迎え撃つために軍を組織しましたが、信仰の様子が無かったために9月8日に解散し、同時期にスコットランドのトスティイがヨーク地方に侵入していたためそちらの対処に当たっていました。ハロルドはスタムフォード=ブリッジにおいてノルウェー王ハーラルとトスティイを破りましたが、その翌日にノルマン軍がペウェンジに上陸してきたのでした。

ノルマン軍が海峡を渡る様子

上陸後ノルマン軍はヘイスティングズに要塞を建設しました。これを受けてハロルドは急いで南下し、10月14日にノルマン軍とイングランド軍の戦闘となりました。この戦いこそがかの名高きヘイスティングズの戦いです。この戦いにおいてハロルドは目に矢を受けて戦死したとされています。イングランド軍は敗走し、ギョーム2世率いるノルマン軍の勝利が確定しました。

 

1066年にクリスマス、ギョーム2世はウェストミンスター寺院においてイングランド王ウィリアム1世として即位、ここに征服王ウィリアム1世が誕生しノルマン朝が開かれました。

 

これは当然のことかもしれませんが、イングランドは素直にノルマン人による統治を受け入れたわけではありませんでした。1070年代には各地でアングロサクソン系の貴族たちが反乱を起こしていました。彼らの反乱は次第に鎮圧され、大陸出身の貴族(ノルマンディー公国の貴族)が後釜に据えられていきました。統治方法は基本的にはイングランドに元からあったものを利用しました。中国の清王朝が明の制度を引き継いだことと似ていますね。

 

治世の後半に入るとイングランドの中枢を担う勢力はノルマン人となりました。ウィリアム1世を含めノルマン人貴族たちは元々のノルマンディー公国にも領地を持っていましたから、両方を支配していました。ウィリアム1世もノルマンディーに長期間滞在していたほか、中にはイングランドに根付いてノルマンディー側との関係が薄くなる貴族もいました。

 

ウィリアム1世は1087年、フランスとの戦いの中でなくなりました。ウィリアム1世に始まるノルマン朝はその後4代約100年に渡って続きました。

 

さてここで、どうやってノルマン人とアングロ=サクソン人はどうやって融合していったのかという疑問が残りましたね。これには主に二つの方法がありました。

まず第一には婚姻です。ノルマンディー公国から渡ってきた人物は主に男性で、イングランド貴族の娘などと結婚することで融合していきました。

また第二には教会の働きがあげられます。教会は地元の住民にとって現在の公民館のような機能も果たしており、交流の場となりました。

 

今回はノルマン=コンクエストについて書いていきました。久しぶりに執筆したのと、いつもより文章量が多く少し疲れました、、、

通史も書きつつ今回のような記事もどんどん出していきたいと思っていますので今後ともよろしくお願いいたします。

今回の主要参考文献はこちら:

朝治啓三ほか『中世英仏関係史1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年

山代宏道『ノルマン征服と異文化接触』「中世ヨーロッパに見る異文化接触」85--125頁、渓水社、2000年

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