前回はハルシャ王がヴァルダナ朝を建国したことに触れたが、この王朝はハルシャ王死後にすぐ滅亡してしまい、以降北インドではヒンドゥー教勢力が覇を争った。(これら勢力をラージプートと言い、その意味は神の子である。)
→ヴァルダナ朝は短命であったが、唐(中国)から玄奘が陸路で訪れ、ナーランダー僧院で仏教を学び、帰国後に大唐西域記を著している。ちなみに、玄奘は西遊記のモデルであるとされている。また、7世紀には義浄も海路でインドを訪れ南海寄帰内法伝を著している。
→なお、6世紀半から始まるバクティ運動(仏教やジャイナ教を攻撃し、ヒンドゥー教の神を崇拝する運動)により、インドでは仏教は衰退した。
南インドでは、ドラヴィダ人がタミル語を用いて生活しており、北インドとは異なる文化が形成されていた。
→クシャーナ朝がそうであったように南インドの王朝もインド洋を通じてローマと貿易を行っていた。南インドではローマだけでなく、東南アジアや中国とも取引を行っており、これらの貿易航路は「海の道」と呼ばれており、周辺地域では港町を中心に都市国家が建設された。
→海の道には特にチョーラ朝がかかわっており、10世紀から11世紀にかけてはスリランカおよび東南アジアへの軍事遠征や中国(当時は北宋)への使節派遣などを積極的に行っていた。チョーラ朝は中央集権的な国家であったが、13世紀後半にチョーラ朝から離反したパーンディヤ朝とカーカティーヤ朝に滅ぼされた。
まとめ
玄奘と義浄 ともに唐代の僧で、玄奘は陸路でインドへ、義浄は海路でインドへ行った。玄奘は大唐西域記、義浄は南海奇帰内法伝を著した。
バクティ運動 仏教やジャイナ教を攻撃し、ヒンドゥー教の神を崇める。玄奘がインドへ訪れたころにはすでに仏教は衰退を始めており、ガンダーラは廃墟となっていた。
海の道 南インドの王朝がローマや東南アジアなどと貿易するときに用いた海路のこと。チョーラ朝が代表的な王朝として知られている。
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