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ローマ帝国の成立と3世紀の危機

内乱の1世紀を平定したオクタウィアヌスは内乱時代に与えられていた権限を元老院へ返還すると申し出ると、元老院は尊厳者を意味するアウグストゥスの称号を与えた。(以外アウグストゥスとする)

帝政ローマの始まりである。(ローマ帝国)

アウグストゥスは表面上は共和政時代の制度を尊重し、自らを市民の中の第一人者を意味するプリンケプスと名乗った。このため、彼の政治は元首政(=プリンキパトゥス)と呼ばれる。

→以降200年間はローマの平和(パクス・ロマーナ)と呼ばれる時代となり、ローマは最盛期を迎えた。皇帝(元首)には5代目のネロ帝までカエサルの家系の人物が選出された。(アウグストゥスカエサルの姪の息子である)

→紀元後96年に即位したネルウァ帝以降5人の皇帝(ネルウァトラヤヌス、ハドリアヌ、アントニヌス・ピウスマルクス・アウレリウス・アントニヌス)を五賢帝と呼び、その時代を五賢帝時代という。

→2番目のトラヤヌス帝はダキアを属州とし、最大版図を築いた。


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トラヤヌス帝の胸像


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ローマ帝国の最大版図(117年)

(Tataryn作、wikipediaより)

→しかし、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の子ども(コンモドゥス)が皇帝に即位し、192年に暗殺されると、再び内乱がおこった。これ以降の混乱の時代を、軍人皇帝時代と呼んでいる。混乱の時代ではあったが、212年にはカラカラ帝によってアントニヌス勅令が出され、全ての自由人にローマ市民権が与えられたほか、インド(サータヴァーハナ朝)との交易も行われていた。

→3世紀に入ると東方でササン朝ペルシアが成立してローマに圧力をかけるようになり、ローマは軍事費の激増により財政が逼迫したため皇帝政治は経済に介入し、政治不安に加えて経済活動を極度の不振に陥った。この危機的状況のことを、3世紀の危機と呼んでいる。また、3世紀には裕福な市民が大土地を経営するようになり、貧困化して都市から亡命した下層市民を小作人(コロヌス)として働かせるコロナトゥスという生産体制が出来上がり、従来のラティフンディアに取って代わっていった。

 

まとめ

元首政ローマ オクタウィアヌス元老院からアウグストゥスと称号を与えられ、オクタウィアヌス自身は自らをプリンケプスと名乗った。実質的には帝政と変わらないが、あくまでも市民の中の第一人者たるプリンケプスによる青磁であるという態度を取った。

五賢帝 ネルウァトラヤヌス、ハドリアヌ、アントニヌのことを指し、トラヤヌス帝時代に領土が最大となる。ハドリアヌ帝はブリテン島に長城を築いた。

3世紀の危機 ササン朝ペルシアの圧迫による軍事費の増大、軍人皇帝時代の政治不安などのことを指す。(軍人皇帝時代とは、皇帝が軍団によって推戴されたり、軍人自身が皇帝となったりした時期のことを指し、3世紀の危機の危機は3世紀自体を形容して使用される用語である)

生産体制 奴隷制度を活用したラティフンディア→コロヌスという小作人を使役したコロナトゥスに代わった