今回からは中国が魏晋南北朝の混乱に苦労していたころの中東に焦点を当てて解説していきます。中東地域はローマ(ヨーロッパ)と中国(アジア)を結ぶ中間地点に位置しており、交易の要地として繁栄していました。今日、最後の預言者として知られるムハンマドもメッカの商人でした。今回はイスラーム教の誕生とムハンマド死後のイスラーム教の動きについて解説します。
→6世紀後半にササン朝とビザンツ帝国(東ローマ)の争いが激しくなったことでオアシスの道が遮断された。
→オアシスの道を通して取引されていた品物がアラビア半島を経由するようになり、メッカなどが栄える。
→メッカの商人であるクライシュ族ハーシム家に生まれたムハンマドは40歳ごろヒラー山にある洞窟で瞑想していると唯一神アッラーの言葉を授けられた。(アッラーとは、定冠詞アに神を意味するラーが合わさったもので、the godという意味である)イスラーム教の誕生である。
→神からの言葉はその後もたびたび授けられ、613年ごろから預言者としてムハンマドは布教を開始した。
→ムハンマドは富の独占を批判したために商人たちから迫害を受け、622年にメディナに移住(このことをヒジュラといい、聖遷を意味する)し、イスラーム共同体と呼ばれるウンマを建設した。メディナはかつてヤスリブと呼ばれる町であったが、後に預言者の町を意味するメディナと改称された。
→630年、ムハンマドはメッカを征服し、カーバ神殿をイスラーム教の正殿とした。
→イスラームは勢力を広げていき、アラビア半島全域がムハンマドの権威のものでまとめられた。
→632年、ムハンマドが亡くなり、カリフと呼ばれるムハンマドの後継者が選挙によってえらばれた。カリフはムハンマドと異なり、神からの啓示を受ける力はなかった。
→最初のカリフにはアブー・バクルが選ばれ、彼の下でイスラーム勢力はアラブの大征服と呼ばれる征服活動を行い、ササン朝をも滅ぼした。(ニハーヴァンドの戦い)
→アブー・バクル死後、ウマル、ウスマーン、アリーの四人が選出され、選挙で選ばれたため、彼らは正統カリフと呼ばれる。ウスマーンの時代には聖典(コーラン)のがまとめ上げられた。コーランはムハンマドが神の言葉を伝え、それを書き記したものである。
→カリフ制度によってイスラーム教徒(ムスリム)のまとまりを維持できたかのように思われたが、カリフをめぐってムスリム同士が対立し、アリーは殺害されてしまった。アリーと彼の子孫を正当と考えるシーア派はこの時誕生した。
→アリーと対立していたムアーウィヤはカリフを名乗り661年にダマスクスを都としてスンナ派のウマイヤ朝を建てた。
まとめ
イスラーム教 預言者ムハンマドが神からの啓示を受けて開いた。一神教でアッラーを信仰する。信徒には礼拝を含む六信五行が課される。(やらない人もいる)
ムハンマド メッカの商人一族に生まれた。最後の預言者とされている。