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ローマ帝国の東西分裂

3世紀の危機と呼ばれる状況は284年に即位したディオクレティアヌス帝によって克服され、ローマ帝国は再建された。

→内外の危機に対処するため帝国を分割統治する必要性を感じ、帝国を東西に分けてそれぞれを正帝と副帝の2人が統治するテトラルキア(四帝文治制)という方法を取り秩序を回復した。また、ローマ再建にあたりディオクレティアヌス帝は帝国の防衛に重きを置き、軍の兵員を増やすとともに新たな税制を構築した。


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テトラルキアを象徴する像。四人の皇帝が肩を組む様子が彫られている。

ディオクレティアヌス帝は皇帝を神として崇めさせ、専制君主として統治を行ったため、これをもって元首政は崩壊し、専制君主制ローマ(ドミナトゥス)が成立した。

→305年にディオクレティアヌス帝が退位すると、副帝であったコンスタンティウスが西の正帝となった。コンスタンティウスは翌年に没したため、彼の遺児であるコンスタンティヌスが即位した。

コンスタンティヌス帝はそれまで迫害されていたキリスト教を公認するミラノ勅令を発して帝国の統一をはかり、また軍備を増強し属州統治における民政と軍事を明確に分離した。さらに、コロヌス税収を安定させる政策を行い、国際通貨として高い信用を得ることになるソリドゥス金貨をも発行した。

→330年には新しい都となるコンスタンティノープルを建設し、国政の担い手となっていた貴族層を再編した。

→337年3月、コンスタンティヌス帝は崩御ローマ帝国皇帝として初めてキリスト教の洗礼を受けた。

→数々の改革によって帝国の生存をはかったコンスタンティヌス帝であったが、重税による反乱と375年に始まるゲルマン人の大移動による帝国の混乱は収集がつかなくなり、テオドシウス帝時代の395年、ついにローマ帝国は東西に分裂した。


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東西に分裂したローマ帝国。赤が西ローマ帝国を表し、紫が東ローマ帝国を表している。

(Geuiwogbil作、wikipediaより)

コンスタンティノープルを都とする東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とローマを都とする西ローマ帝国が成立した。

西ローマ帝国ゲルマン人の大移動に耐えられず、476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた。東ローマ帝国は1453年まで存続した。

 

まとめ

政治 元首政→専制君主

皇帝 ディオクレティアヌスコンスタンティヌス→テオドシウス

 西はローマ、東はコンスタンティノープル