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新たな統一国家「漢」の登場

始皇帝崩御すると、秦は急速に滅亡に向かった。滅亡に向かう秦を倒し、新たな国家を建設しようとした人が現れるようになり、中でも庶民出身の役人の劉邦と楚の名門の血を引く項羽が覇を争った。俗にいう楚漢戦争の始まりである。今回は楚漢戦争の行方から漢(前漢)の国制までを解説します。

→楚漢戦争は当初項羽が優勢であったが、劉邦の元には韓信など有力な臣下が集まり、4年間の戦いを経て劉邦が勝利した。

高祖 劉邦

劉邦は皇帝に即位し、「漢」を建国した。劉邦は死後、高祖と呼ばれた。

劉邦は新たな都として長安を建設した。長安は漢が滅亡した後もいくつかの王朝の都とされた。また、秦が急速な改革によって民衆の不満を生み滅亡したことを踏まえ、妥協策としてそれまでの封建制を残しつつ郡県制を取り入れる郡国制を採用して統治に当たった。

→朝廷は少しずつ諸侯の力を削いでいったため紀元前154年に呉楚七国の乱が起き、これをきっかけに郡国制は事実上崩壊し郡県制となった。(この時の皇帝は第六代景帝である)

武帝の時代になると、対外戦争が積極的に行われるようになり領土が拡大していった。北方では匈奴を攻撃して中華への侵入を退け、また西方(西域という)には張騫(ちょうけん)を派遣して匈奴を滅ぼすための同盟を大月氏と結ぼうとし、そのときに張騫が得た西域に関する情報を元に西域にも領土を広げていった。(同盟は失敗に終わった)朝鮮半島も征服し、当時半島を支配していた衛氏に代わって楽浪などの郡(朝鮮四郡)を設置して支配した。南方のベトナム(南越)にも南海郡などを設置して支配した。

黄土色の部分が前漢の領域(玖巧仔作、wikipediaより)

→対外戦争の頻発により、財政難に陥る。桑弘羊(そうこうよう)を中心に様々な改革が行われ、なかでも均輸・平準がよく知られている。(失敗した)

武帝の死後宦官や外戚(皇帝の母方の祖父)が台頭し、漢は一時滅亡した。(再度復活するため、ここまでの漢を前漢と呼ぶ)

 

補足

郡県制と郡国制の違いについて 国内をいくつかの郡に分け、朝廷から役人を派遣して中央政府が土地を直接治めるやり方のこと。県は郡よりも小さい単位のこと(現在でいう県と市区町村のようなもの)一方で郡国制は、都の周辺は郡県制を用いて中央政府が直接統治し、都から離れているところは周が行ったのと同じように諸侯(豪族や貴族のような存在のこと)に土地を治めさせるやり方のこと。

均輸・平準について 均輸とは物価の安定を図るため各地から特産品などの物資を納めさせ、物資が不足しているところへ転売する方法のことで、平準とは物資が余っているときは市場に出すのを控え、物資が不足し物価が上がっているときは市場に売り出すもので、物価を抑制する方法のこと。