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戦国時代を制し始皇帝を名乗った「秦」

西の大国「秦」は紀元前221年、戦国の七雄を全て倒し、中華統一を果たした。秦が中華を統一する過程はここに書ききることができないのでまたの機会に解説したいと思います。秦が中華を統一することができたのは諸子百家の一人であり、法家に分類される商鞅による改革の成功によるものでしょう。今回は商鞅の改革から始皇帝の統治手腕までを解説していきます。

→紀元前4世紀に活躍した商鞅は秦の孝公につかえた。什伍の制と呼ばれる戸籍制度や法治主義の考えを導入し秦の国力アップに寄与した。(なんの偶然かローマで十二表法が制定されたのもこの頃で、積極的に法律が運用され始めた時期が東西で被っている)

→国力をつけた秦は東方への進出を開始し、紀元前221年には東方の大国「斉」を滅ぼして中華を統一した。

→秦王「政」は始皇帝の称号を用い、中央集権国家の構築を進めた。郡県制が全国に導入され、中央政府から役人を派遣し、郡県の統治をおこなわせた。また、それまで国ごとに異なっていた通貨や車幅、文字などを統一した。(秦では半両銭が用いられた)

秦の始皇帝

半両銭。半両の文字が見て取れる


→さらに、儒教を排斥して儒者を生き埋めにし、医薬、占い、農業以外の書物を焼いて思想の統制を図った。この出来事は焚書・坑儒と呼ばれている。(坑儒の坑は土へん)

→現在観光地になっている万里の長城を修築も行われ、南方では南海郡などの郡を

三つ設置した。長城の北には匈奴と呼ばれる遊牧民が生活していた。

→土木工事や戦争で駆り出される庶民の負担はやがて限界に達し、始皇帝の死後すぐに陳勝呉広の乱(「王侯将相いずくんぞ種あらんや」の言葉で有名である)をはじめとする農民反乱が相次ぎ、また始皇帝の最側近の裏切りなども影響して15年ほどで秦は滅亡し、反秦勢力のなかから台頭してきた項羽劉邦が中華の覇を競う混乱の時代が再び訪れた。

現在の万里の長城は明の時代に修築されたものである(Hao Wei作、wikipediaより)

 

まとめ

秦 商鞅の改革以降力をつけ、紀元前221年に中華統一を果たした。法律を重視したが、厳しい政治は反感を買い、15年ほどで滅亡した。

始皇帝 秦国第34代国王「政」が名乗った。「光輝く神」を意味する。始皇帝以前の各国の君主は「王」を名乗っていた。