サクッとわかる高校世界史

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「ノルマン=コンクエスト」とはなんだったのか

三日ぐらい休んでまた書き始めるつもりが、気づいたら3か月たっていました。時間の流れは早いですなあ。。。もう暑くて暑くて仕方ないですね。夏はこれからだというのに…

今回はいつもとは少し趣向を変えて、ノルマン=コンクエストについて書きたいなと思います。名前は聞いたことがある方も多いと思いますが、そこまで詳しく扱っているものを見る機会はあまりないように思います。投稿をサボってた期間中に色々と智識を仕入れたので、今回は第一弾としてノルマン=コンクエストについて書いていきます。

 

まずそもそもノルマン=コンクエストのノルマンとは何かって話なのですが、ノルマンとはゲルマン人の一派のことです。彼らは主にスカンディナビア半島(現在のスウェーデンなど)のあたりに住んでいて、8世紀ごろから一部のノルマン人は各地で略奪行為を行っていました。彼等こそが世に名高いヴァイキングです。

本当かどうかは知りませんが、ヴァイキングはアメリカ大陸にまで到達していたなんて話も聞いたことがあります。

10世紀の初めにはロロという人物によって北フランスにノルマンディー公国が建国されました。このさいロロはゲルマン人の土着信仰からキリスト教に改宗しています。この公国の君主、ギョーム2世がノルマン=コンクエストの主役と言ってよいでしょう。ギョーム2世はロロから約100年後のノルマンディー公で、おそらくは征服王ウィリアム1世の名で知られています。

ギョーム2世



さて、ここまででノルマン人側の基礎知識について述べてきました。ここからはイングランド側についても見ていきます。

 

イングランドにはこれまたゲルマン系のアングロ=サクソンと呼ばれる人々が移住しており、9世紀には王国を建国していました。ノルマン人に征服される前の、つまり11世紀前半のイングランドでは、ウェセックス伯のゴドウィンという人物の一族が権勢を誇っていました。当時のイングランド王エドワードの妻もゴドウィン家の出身で、名をイーディスと言いました。ゴドウィンの息子であるハロルドは1053年にウェセックス伯を継承し、その後1066年にエドワードが亡くなると、ハロルドがイングランド王位を継承しました。ハロルドの力や血縁関係からして、その資格は十分にあったと言えるでしょう。ちなみにですが、このハロルドはハロルド2世の方で、1世ではありません。ハロルド2世はエドワードの跡を継ぎましたが、即位していた期間は僅か9か月ほどでした。

ハロルド2世



この王位継承に介入してきたのがギョーム2世でした。一見介入の余地はないように思われますが、血縁関係をさらにひも解いていくと口実が見えてきます。さらに、ノルウェー王ハーラル=ハルドラーダも王位を主張していました。

 

というのも、ギョーム2世はエドワードの母の兄弟の孫にあたる人物で、血縁関係があったのです。なおノルウェー王ハーラルについては、義理の兄弟がカヌートと交わした約束を根拠に王位を請求しており、血縁関係はありません。なかなかに無理やり感があります

 

このような状況の中で、ギョーム2世にとっては好都合な条件が揃っていました。まず第一に、フランス王アンリ1世が1060年に亡くなると、後継にはフィリップ1世が即位するのですが、フィリップは幼年であったためにギョーム2世の親戚の後見下にありました。これによりフランスによる介入は阻止されていたわけです。さらにアンジュー伯ジョフロワも1060年に亡くなっておりアンジュー伯領は混乱状態にありました。

加えて、スコットランドではノルウェー王ハーラルと共にイングランド王ハロルドに対抗するトスティイがおり、イングランドは北と南を同時に相手にする必要に迫られていました。トスティイという人物はハロルドの弟にあたる人物です。

 

さて、いよいよ征服が始まるのですが、一点注意が必要です。現代において国家は基本的に常備軍を有していますが、当時は常備軍という概念は存在せず、都度組織されていました。

イングランド王ハロルドはノルマン人を迎え撃つために軍を組織しましたが、信仰の様子が無かったために9月8日に解散し、同時期にスコットランドのトスティイがヨーク地方に侵入していたためそちらの対処に当たっていました。ハロルドはスタムフォード=ブリッジにおいてノルウェー王ハーラルとトスティイを破りましたが、その翌日にノルマン軍がペウェンジに上陸してきたのでした。

ノルマン軍が海峡を渡る様子

上陸後ノルマン軍はヘイスティングズに要塞を建設しました。これを受けてハロルドは急いで南下し、10月14日にノルマン軍とイングランド軍の戦闘となりました。この戦いこそがかの名高きヘイスティングズの戦いです。この戦いにおいてハロルドは目に矢を受けて戦死したとされています。イングランド軍は敗走し、ギョーム2世率いるノルマン軍の勝利が確定しました。

 

1066年にクリスマス、ギョーム2世はウェストミンスター寺院においてイングランド王ウィリアム1世として即位、ここに征服王ウィリアム1世が誕生しノルマン朝が開かれました。

 

これは当然のことかもしれませんが、イングランドは素直にノルマン人による統治を受け入れたわけではありませんでした。1070年代には各地でアングロサクソン系の貴族たちが反乱を起こしていました。彼らの反乱は次第に鎮圧され、大陸出身の貴族(ノルマンディー公国の貴族)が後釜に据えられていきました。統治方法は基本的にはイングランドに元からあったものを利用しました。中国の清王朝が明の制度を引き継いだことと似ていますね。

 

治世の後半に入るとイングランドの中枢を担う勢力はノルマン人となりました。ウィリアム1世を含めノルマン人貴族たちは元々のノルマンディー公国にも領地を持っていましたから、両方を支配していました。ウィリアム1世もノルマンディーに長期間滞在していたほか、中にはイングランドに根付いてノルマンディー側との関係が薄くなる貴族もいました。

 

ウィリアム1世は1087年、フランスとの戦いの中でなくなりました。ウィリアム1世に始まるノルマン朝はその後4代約100年に渡って続きました。

 

さてここで、どうやってノルマン人とアングロ=サクソン人はどうやって融合していったのかという疑問が残りましたね。これには主に二つの方法がありました。

まず第一には婚姻です。ノルマンディー公国から渡ってきた人物は主に男性で、イングランド貴族の娘などと結婚することで融合していきました。

また第二には教会の働きがあげられます。教会は地元の住民にとって現在の公民館のような機能も果たしており、交流の場となりました。

 

今回はノルマン=コンクエストについて書いていきました。久しぶりに執筆したのと、いつもより文章量が多く少し疲れました、、、

通史も書きつつ今回のような記事もどんどん出していきたいと思っていますので今後ともよろしくお願いいたします。

今回の主要参考文献はこちら:

朝治啓三ほか『中世英仏関係史1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年

山代宏道『ノルマン征服と異文化接触』「中世ヨーロッパに見る異文化接触」85--125頁、渓水社、2000年

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