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南北朝を統一した隋の建国と滅亡の30年史

今回から舞台は東洋に移ります。前回までで古代東南アジア諸国や中国の魏晋南北朝時代について見てきました。今回からは魏晋南北朝時代を終わらせた隋王朝隋王朝の次に成立した唐王朝について見ていきます。今回は隋王朝について見ていきます。

 

sakureki.hatenablog.com

魏晋南北朝時代についてはこちらをご覧ください↑

→578年に北周で宣帝が即位した。彼は皇帝権力の強化に努めた。

→1年後の579年、宣帝は退位して皇帝位を当時7歳であった静帝に譲り、自らは天元皇帝を名乗った。これは、天の神々と自らを同一の存在であると示すことによって新たな権威を生み出すためであった。

→しかし、翌年に天元皇帝は死亡し、その称号は消滅した。これにより、北周の最高権力者は8歳の静帝となった。幼年の皇帝に代わって実権を握ったのは天元皇帝の舅であった楊堅(ようけん)であった。

→581年、楊堅静帝から皇帝位の禅譲を受けて皇帝となった。隋が成立したのはこの時である。

隋の建国者、楊堅

楊堅は大興城(長安と同じ)を都と定め、589年には南朝「陳」の都である建康を攻略し、南北朝の統一を果たした。

→隋の時代にはかつての中華王朝で採用された均田制などを行い、九品中世を廃止して科挙を開始した。

→604年に即位した煬帝(ようだい)は大運河を完成させて水運によって華北と江南を接続した。また、3回にわたって朝鮮半島北部に存在した高句麗を攻撃した。しかし、その全てが失敗に終わり、大きな負担に苦しんだ農民による反乱が起こった。

→反乱を受けて煬帝は都から揚州へ逃れたが殺害され、隋は滅亡した。隋の建国からわずか30年ほどのことであった。

煬帝が殺害された年(618年)、煬帝の孫である3代皇帝は李淵に皇帝位を禅譲し、唐が成立した。

7世紀初めの隋と周辺国(トムル作、wikipediaより)

 

まとめ

楊堅 北周の出身で隋を建国した人物。文帝と呼ばれる。南朝の陳を滅ぼして南北朝を統一した。

煬帝 隋の2代目皇帝。大運河を完成させたほか、高句麗へ3回にわたって軍を送った。高句麗遠征はすべて失敗し、反乱の中で殺された。

 

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