前回は宋の北方に成立した遊牧民族国家について見ていきました。今回は、宋がそれらの国家とどのような関係を結び、戦争を控えたのかを見ていきます。宋は文治主義を採用していましたが、軍隊を持たなかったわけではありません。皇帝を守る親衛隊に当たる禁軍や、募兵制に基づく軍隊を持っており、その軍隊がのちのち財政を圧迫していきます。
→宋が中国を統一してから少し経った1004年、契丹との間で澶淵の盟(せんえんのめい)が結ばれた。燕雲十六州を獲得して以降契丹は華北へ侵入を繰り返していた。澶淵の盟では、宋は契丹を弟として毎年絹20万疋(びき)、銀10万両を贈った。
→さらに、1044年には西夏との間で慶暦の和約(けいれきのわやく)が結ばれた。この和約では、西夏が宋に臣下の礼をとり、宋は毎年銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を贈った。
→1126年には金が貿易の拡大を宋に申し入れ、それが認められなかったことから宋に侵攻した。金は宋の都の開封を陥落させ、皇帝の欽宗(きんそう)と上皇の徽宗(きそう)を誘拐した。この事件を靖康の変(せいこうのへん)という。
→これにより宋は滅亡し、欽宗の弟が江南で皇帝に即位して1127年、南宋(なんそう)が成立した。このため、靖康の変以前の宋を北宋と呼ぶ。
→南宋では金と戦おうとする岳飛(がくひ)を中心とする主戦派グループと、秦檜(しんかい)を中心とする和平派グループが対立した。
→和平派が対立を制し、南宋は金に対して臣下の礼をとることとなり、毎年贈り物をした。この取り決めのことを紹興の和議(しょうこうのわぎ)という。
北宋時代には港が栄え、初期はとても裕福な国家でした。しかし、北方民族国家に多くの贈り物をしたことに加え、軍隊が財政を圧迫したことでだんだんと余裕がなくなっていき、改革の必要性に迫られていました。次回はこの改革について見ていきます。
まとめ
澶淵の盟 北宋と契丹の間で結ばれた。宋は契丹を弟として多くの贈り物をした。
慶暦の和約 北宋と西夏の間で結ばれた。西夏は北宋に対して臣下の礼をとり、宋から多くの贈り物を受け取った。
靖康の変 金が北宋の皇帝を誘拐した事件。これにより北宋が滅亡し、南宋が成立した。
紹興の和議 南宋と金の間で結ばれた。南宋が金に対して臣下の礼をとり、贈り物をした。秦檜が宰相として先頭に立って成立させた。
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